top of page

ナポレオン戦争 NBW

ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)では、フランスがヨーロッパを席巻して、一時はヨーロッパのほぼ全域を支配下に置いた(デンマーク=ノルウェーとは同盟、最後まで敵対を続けたのはイギリスと島嶼部領地のみになったサルデーニャ王国とナポリ王国だけだった)。

ナポレオン戦争: テキスト

NBW①国民国家フランスの成立と第二次イタリア遠征

フランス国内では、エジプト遠征から途中離脱して帰国したナポレオン・ボナパルトが1799年11月9日にクーデターを起こして第一統領に就任して実権を握っていた(国民国家フランス帝国(共和国)の成立)。これ以降をナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)と呼ぶ。

NBW②第三次対仏大同盟

1802年3月25日にイギリスもフランスと講和していた(アミアンの和約)が、講和の取決めはほとんど守られなかった。1803年5月16日には、イギリスはアミアンの和約(1802年3月25日〜1803年5月16日)を破棄して再度フランスへ宣戦布告した。【第三次対仏大同盟】

NBW③プロシア戦役とティルジットの和約

1806年7月12日に神聖ローマ帝国内のすべてのドイツ諸侯が離脱してフランスと同盟した(ライン同盟、ナポレオン・ボナパルトが盟主、事実上の保護国化)ため、同年8月6日にフランツ2世は神聖ローマ帝国(962年〜)の解散を表明した。

NBW④大陸封鎖令の発令とティルジットの和約

1806年11月21日にベルリンで、ナポレオン・ボナパルトは大陸封鎖令を発令した。そして、1807年7月7日にロシアとフランスが講和した(ティルジットの和約)。フランスとロシアが協調することとなり、ロシアがイギリスへ宣戦布告し、スウェーデンに圧力をかけて大陸封鎖令に参加させることになった。

NBW⑤スペインのゲリラ戦

ロシアにスウェーデンの大陸封鎖令参加を任せると、残る未参加国はポルトガルだけとなった。ナポレオン・ボナパルトは、1807年10月27日にスペインと秘密裏にポルトガルの占領・分割で合意し、スペインにフランス軍の領内通過を認めさせ(フォンテーヌブロー条約)て、ポルトガルの制圧準備を整えた。

NBW⑥オーストリア戦役

1809年4月9日にオーストリアは、北イタリア・バイエルン・ワルシャワ公国の3方面へ同時侵攻を開始した。ところが、バイエルン方面のオーストリア軍がライン同盟に駐留するフランス軍の反撃を受けて敗北する等してしまい、1809年5月12日にはナポレオン・ボナパルトにウィーンを占領される事態となってしまった。

NBW⑦ロシアの焦土作戦

半島戦争(1808年5月2日〜1814年5月30日第一次パリ条約)は続いているものの、オーストリアに勝利してフランス帝国の最大版図を誇ったナポレオン・ボナパルトだったが、1810年にロシアが大陸封鎖令を無視してイギリスとの通商を再開した。

NBW⑧第六次対仏大同盟〜第一次パリ条約

実は、1812年ロシア戦役勃発前の1812年4月5日には交戦中のイギリス・ロシア・スウェーデンが秘密裏に協調してフランスに対抗することを合意(サンクトペテルブルク条約)しており、勃発後の1812年7月18日に公然と講和(エレブルー条約)して第六次対仏大同盟を結成した。

NBW⑨フランス第一帝政の滅亡

1814年7月からウィーン会議が開催され、1815年6月9日にウィーン体制の枠組みが形成された(ウィーン議定書)。1815年11月20日に第七次対仏大同盟が第一次パリ条約を修正(第二次パリ条約)して、ナポレオン戦争は終わった。

NBW⑩ウィーン議定書の内容

イギリス、ロシア、プロシア、オーストリアの主導で、ヨーロッパ各国の領土に関する利害調整がなされた(ウィーン議定書(1815年6月9日))。

ナポレオン戦争: リスト
bottom of page