1806-1812.5.28 NBW 露土戦争, ブカレスト条約
- 四々縦七
- 2022年4月3日
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ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)のなか、アウステルリッツの戦い(1805年12月2日)でオーストリア・ロシア連合軍がフランス軍に敗れたこともあり、第二次対仏大同盟(1798年〜1801年2月9日リュネヴィルの和約)に参加していたオスマン帝国は、1806年2月にフランスと講和(フランスは第一次セルビア蜂起の鎮圧に協力することを約束)した。
1806年にロシアがモルダヴィアおよびワラキアに侵攻したのに対し、オスマン帝国がボスポラス海峡・ダーダネルス海峡の商船の通行を禁じたうえ宣戦布告して、戦争が勃発した(露土戦争(1806年〜1812年5月28日ブカレスト条約))。
当初オスマン帝国は優勢だったが、第三次対仏大同盟に参加していたロシアがフランスと協調することを約束(ティルジットの和約(1807年7月7日))して以降、オスマン帝国に対して攻勢に転じた。
1810年にロシアが大陸封鎖令を無視してイギリスとの通商を再開したため、フランスのロシア遠征のおそれが高まっていた。ロシアは講和を急ぎ1812年5月28日に、オスマン帝国がロシアによるドニエストル川からプルート川までの地域(ベッサラビア)併合とセルビア人への自治権付与を承認し、ロシアは占領していたモルダヴィアとワラキアから撤退することで合意し講和した(ブカレスト条約)。
実際に、ナポレオン・ボナパルトによる1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日)が講和後1ヶ月も経たないうちにはじまった。

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