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1807.11.29 NBW ポルトガル女王の逃走【仏西軍のポルトガル本土占領】

  • 執筆者の写真: 四々縦七
    四々縦七
  • 2022年3月25日
  • 読了時間: 1分

ロシアにスウェーデンの大陸封鎖令参加を任せる(1807年7月7日ティルジットの和約)と、残る未参加国はポルトガルだけとなった。ナポレオン・ボナパルトは、1807年10月27日にスペインと秘密裏にポルトガルの占領・分割で合意し、スペインにフランス軍の領内通過を認めさせ(フォンテーヌブロー条約)て、ポルトガルの制圧準備を整えた。


1807年11月にナポレオン・ボナパルトはポルトガル攻略を命じて、フランス軍をイベリア半島に送った。スペイン軍も合流し、12月1日にはフランス・スペイン連合軍がリスボンを攻略した。ところが、ポルトガル女王マリア1世とジョアン王子はポルトガル艦隊と共に11月29日に出港していた。英葡永久同盟(1373年6月16日〜現在)に基づき、イギリス艦隊がこれを護衛していた。


ポルトガル女王マリア1世とジョアン王子はポルトガル植民地ブラジル公国に亡命し、1809年にはリオデジャネイロに遷都してポルトガルの正式な首都とした。ポルトガルはブラジルを含む植民地統治を継続することができた。


ポルトガルの海外植民地を奪取し損ねたナポレオン・ボナパルトは、同盟国スペインに手を出してしまう。




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