1808.5.2-1814.5.30 NBW 半島戦争, 第一次パリ条約
- 四々縦七
- 2022年3月26日
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1808年になってフランス軍がパンプローナとバルセロナを占領すると、1808年5月2日にスペイン人がマドリッドで暴動を起こし(Dos de Mayo Uprising)て、半島戦争(1808年5月2日〜1814年5月30日第一次パリ条約)が勃発した。反乱鎮圧のために派遣されたフランス軍をスペイン軍が破ると(バイレンの戦い(1808年7月16日〜19日))、6月にはポルトガルでも反乱が起こっていたこともあり、8月になってイギリス軍が上陸してイギリス・ポルトガル連合軍がポルトガルからフランス軍を撤退させた。
1808年末から1809年初めにかけてナポレオン・ボナパルトが率いるフランス軍がスペインに侵攻して領土の大半を占領した。しかし、これ以降スペイン人はゲリラ戦を展開するようになってフランス駐留軍を苦しめた。スペイン占領を受けて、フランス軍は再度ポルトガルに侵攻したが、イギリス・ポルトガル連合軍の抵抗に遭い、焦土作戦を展開されて補給もままならないため大規模な軍編成もできず、リスボンを陥落させることはできないでいた。1811年5月16日にフランス軍はイギリス・スペイン・ポルトガル連合軍と戦ったが決定的な勝敗はつかず(アルブエラの戦い)、半島戦争(1808年5月2日〜1814年5月30日第一次パリ条約)は一時休戦状態となったため、フランス軍はスペイン人のゲリラ戦に苦しめられ続けた。
1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日)にフランス軍の一部が振り向けられたことにより、1813年になるとイギリス・スペイン・ポルトガル連合軍が攻勢に転じた。退却を始めたフランス軍を追撃して7月にはピレネー山脈まで押し戻し、10月にはフランス本土への侵攻を開始した。
一方、ライプツィヒの戦い(1813年10月16日〜19日)に勝利したロシア・オーストリア・プロシア・スウェーデン連合軍も、フランス本土への侵攻を開始した。
フランス本土に北からロシア・オーストリア・プロシア・スウェーデン連合軍が、南からイギリス・スペイン・ポルトガル連合軍が侵攻する事態となり、1814年3月31日にはパリが陥落した。4月4日にはナポレオン・ボナパルトが退位し、4月6日に王政が復古した(ルイ18世、フランス復古王政(1814年4月6日〜1830年7月29日))。
1814年5月30日にフランスとイギリス・ロシア・プロシア・オーストリア4カ国が講和し、ウィーン会議の開催を取決めた(第一次パリ条約)。スウェーデン・スペイン・ポルトガル3カ国も第一次パリ条約に署名した。


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