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1809.4.9-10.14 NBW オーストリア戦役, シェーンブルンの和約【墺仏講和】

  • 執筆者の写真: 四々縦七
    四々縦七
  • 2022年3月29日
  • 読了時間: 2分

1809年4月9日にオーストリアは、北イタリア・バイエルン・ワルシャワ公国の3方面へ同時侵攻を開始した。


ところが、バイエルン方面のオーストリア軍がライン同盟に駐留するフランス軍の反撃を受けて敗北する等してしまい、1809年5月12日にはナポレオン・ボナパルトにウィーンを占領される事態となってしまった。カール大帝は、ドナウ川を渡河する途中のナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍を撃退して勝利した(アスペルン・エスリンクの戦い(1809年5月21日〜22日)。直接率いた戦闘でナポレオン初めての敗戦)が、荒天夜間のドナウ川渡河を成功させたナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍に敗北(ヴァグラムの戦い(1809年7月5日〜6日))して、停戦を申し入れざるを得なかった。今回のオーストリアは実質的に僅か3ヶ月で負けてしまった計算になる。


ちなみに、1809年7月30日にイギリス陸軍がオランダに上陸してオーストリアを側面支援しようとしたが時機を失して効果は挙げられず撤退している(ワルヘレン遠征(Walcheren Campaign)、1809年7月30日〜12月23日)。


1809年10月14日にオーストリアはフランスと講和し、フランスにダルマチア(クロアチアのアドリア海沿岸地域一帯)を、バイエルン王国にチロルを、ワルシャワ公国に北部ガリツィアを、ロシアに東部ガリツィアをそれぞれ割譲し、賠償金を課せられ、陸軍の総兵力を制限された(シェーンブルンの和約)。



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