1821.3.25-1832.8.30 ギリシャ独立戦争
- 四々縦七
- 2022年5月8日
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1821年3月25日にギリシャが独立を宣言して、オスマン帝国との戦争(ギリシャ独立戦争(〜1832年8月30日)が勃発した。戦況は、当初はギリシャ優勢、ついでオスマン帝国優勢であった。しかし、イギリス・フランス復古王政(1814年4月6日〜1830年7月29日)・ロシアが介入し、1827年10月20日にギリシャのナヴァリノ湾での海戦で、英仏露連合艦隊がオスマン帝国艦隊に勝利(ナヴァリノの海戦)すると、派生してロシアとオスマン帝国の間で戦争が勃発してロシアが勝利し、オスマン帝国はギリシャ共和国の独立を承認させられた(露土戦争(1828年〜1829年9月14日エディルネ条約(アドリアノープル条約)))。
1830年にはイギリス・フランス復古王政(1814年4月6日〜1830年7月29日)・ロシアがギリシャ共和国の独立を承認した(1830年2月3日ロンドン議定書(1830 Protocol of London))が、英仏露はあくまで英仏露の保護国としてのギリシャの独立を承認しただけであった。
1832年になってイギリス・フランス七月王政(1830年8月9日〜1848年2月24日)・ロシアとオスマン帝国は、ギリシャ独立戦争(1821年3月25日〜1832年8月30日)の講和会議を開いた(1832年2月〜8月30日ロンドン会議)。このなかで、ギリシャ王国の設立を英仏露が決定(5月7日ロンドン会議(Convention of 7 May 1832 between Great Britain, France, Russia, and Bavaria))し、英仏露とオスマン帝国がオスマン帝国とギリシャ王国の国境を確定(コンスタンティノープル条約)して、ギリシャ王国の独立と国境確定を取り決めて講和条約が締結された(1832年8月30日ロンドン議定書(London Protocol of 30 August 1832))。
なお、当初のギリシャ優勢をオスマン帝国が挽回して優勢にまで転じた背景には、オスマン帝国の要請により、エジプト総督ムハンマド・アリーが率いるエジプト軍が参戦したという事情があった。これが、オスマン帝国に世襲統治権を認めさせて(1840年7月15日ロンドン条約)、ムハンマド・アリー朝(1805年5月17日〜1953年6月18日)が正式に成立する機会を与える端緒となった。

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