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1832.8.30 ギリシャ共和国(王国)🇬🇷#116 英仏露の保護国として独立

  • 執筆者の写真: 四々縦七
    四々縦七
  • 2022年6月27日
  • 読了時間: 3分

1832年8月30日に、ギリシャはギリシャ独立戦争(1821年3月25日〜1832年8月30日)に勝利して、オスマン帝国(1299年〜1922年11月1日)から独立した。「自由か死か」が合言葉の革命戦争だった。


まず、陸続きで隣接する宗主国(この場合はオスマン帝国)から独立するという新しい形の革命戦争の嚆矢となった意義は大きい。


国民国家フランスを誕生させたフランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)は既存の独立した強国に起きた革命戦争だったから別格として(それがゆえに、世界大戦ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)が勃発し、結局一旦は王政が復古したが…)、アメリカ革命戦争(ARW、1775年4月19日〜1783年9月3日)、ハイチ革命戦争(1791年8月22日〜1804年1月1日)、アメリカ大陸での諸国家の誕生(1814年6月12日パラグアイ共和国成立〜)では、宗主国は大西洋の向こう側にあった。


他方で、勝手に王国にされたり、国境も決められたりと、所詮はイギリス・フランス・ロシアの保護国ギリシャ王国として独立だった。


イギリス・フランス・ロシア(ロマノフ家)に加えて、プロシア王国(ホーエンツォレルン家、後のドイツ第二帝国)・オーストリア(ハプスブルク家)・サルデーニャ王国(サヴォイア家、後のイタリア王国)というヨーロッパ諸国にとっては、オスマン帝国を弱体化させ自国の権益・勢力を拡大させるツールとしての「小国の独立」のモデルケースともなった。

【ギリシャ独立戦争(1821年3月25日〜1832年8月30日)の経緯】

1821年3月25日にパトラ府主教のゲルマノス(Germanos III of Old Patras)が、「自由か死か」で有名な独立宣言をし、3月26日にロシア軍人のアレクサンドロス・イプシランディス率いる一隊がヤッシーで蜂起してギリシャ独立戦争が始まった。ギリシャ国旗の9本の横線は、「自由か死か(Ελευθερία ή Θάνατος) 」の9音節を表しているそうだ。


臨時政府(ギリシャ第一共和政)を樹立して戦っていたギリシャ人達は当初優勢だったが、オスマン帝国の要請により、エジプト総督ムハンマド・アリーが率いるエジプト軍が参戦すると形勢は逆転した。するとオスマン帝国の弱体化を狙うイギリス・フランス復古王政(1814年4月6日〜1830年7月29日)・ロシアが介入し、1827年10月20日にギリシャのナヴァリノ湾での海戦で英仏露連合艦隊がオスマン帝国艦隊に勝利(ナヴァリノの海戦)すると、派生してロシアとオスマン帝国の間で戦争が勃発してロシアが勝利しオスマン帝国はギリシャ共和国の独立を承認させられた(露土戦争(1828年〜1829年9月14日エディルネ条約(アドリアノープル条約)))。


1830年にはイギリス・フランス復古王政・ロシアがギリシャ共和国の独立を承認した(1830年2月3日ロンドン議定書)が、1832年になってイギリス・フランス七月王政(1830年8月9日〜1848年2月24日)・ロシアとオスマン帝国が講和会議(1832年2月〜8月30日ロンドン会議)を開くと、ギリシャ王国の設立を英仏露が決定(5月7日ロンドン会議)し、英仏露とオスマン帝国がオスマン帝国とギリシャ王国の国境を確定(コンスタンティノープル条約)して、ギリシャ王国の独立と国境確定を取り決めて講和条約が締結された(1832年8月30日ロンドン議定書)。


勝手に王国にされたり、国境も決められたりと、結局はイギリス・フランス・ロシアの保護国ギリシャ王国として独立を達成することになった。イギリス・フランス・ロシアとしては、独立によるオスマン帝国の弱体化は歓迎だが、バルカン半島に強力な国民国家が誕生することは望まないということだ。

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