1840年7月15日に、ムハンマド・アリー朝エジプト(1805年5月17日〜1953年6月18日)は第二次エジプト・トルコ戦争(1839年〜1840年11月27日)に勝利し、ムハンマド・アリーがエジプトの世襲統治権を得て、オスマン帝国(1299年〜1922年11月1日)から実質的に独立した。
まず、陸続きで隣接する宗主国(この場合はオスマン帝国)から独立するという形としては、ギリシャ王国(1832年8月30日独立)につづく2つ目のケースである。
しかし、ギリシャ反乱軍は弱かったが、ムハンマド・アリーに率いられたエジプト軍は強く、第二次エジプト・トルコ戦争(1839年〜1840年11月27日)がそのまま続いていたら、ムハンマド・アリー朝オスマン帝国が誕生していたかもしれないとすら言える点が大きく異なる。
他方で、ムハンマド・アリー朝エジプトの独立も、所詮はイギリス・ロシア・オーストリア・プロシアの干渉を免れなかった。
そもそも、英露普墺の介入の理由はオスマン帝国の崩壊を恐れたためであった。そして、英露普墺の介入によって、第二次エジプト・トルコ戦争は講和を強いられ、オスマン帝国は名目上の宗主権を維持し、ムハンマド・アリー朝エジプトはシリアの統治権を放棄させられた。その上での世襲統治権獲得だったのだ(1840年7月15日ロンドン条約)。もちろんムハンマド・アリーもすぐに従ったわけではなく、イギリス・オーストリア・オスマン帝国連合艦隊の攻撃などによってエジプト軍が劣勢となり、1840年11月27日にイギリスと講和しロンドン条約の内容を受諾して戦争を終わらせざるを得ない状況に追い込まれたのだ(アレクサンドリア条約)。
ムハンマド・アリーにとって不幸だったのは、第一に、イギリスにとってエジプトがイギリス本国とインド植民地をつなぐ重要な中継地であったことだった。イギリスはエジプトに強大な国民国家の成立することを望んでいなかった。
第二に、ロシア艦隊のボスポラス海峡およびダーダネルス海峡通行の絶対阻止が、英露グレートゲーム(GreatGame、1828年2月21日〜1907年8月31日)におけるイギリスのロシア南下阻止戦略の最優先事項のひとつであったことだった。そのためには、オスマン帝国を交渉相手として、ボスポラス海峡およびダーダネルス海峡の外国軍艦の通行を全面禁止にする(1840年7月15日ロンドン条約、1841年7月13日ロンドン海峡条約)のが得策だった。
第三に、ロシアとしてもバルカン半島ルートやコーカサス・ルートを通じた南下政策の実現のためには、弱体化しつつあるオスマン帝国が今しばらく存続する方が都合が良かった。
ムハンマド・アリーが「世襲統治権獲得」だけで譲歩したのは、仕方なかったと評価すべきであり、外交判断としては正しかったと評価すべきだろう。

1821.3.25-1832.8.30 ギリシャ独立戦争, ロンドン議定書
1821年3月25日にギリシャが独立を宣言して、オスマン帝国との戦争(ギリシャ独立戦争(〜1832年8月30日)が勃発した。戦況は、当初はギリシャ優勢、ついでオスマン帝国優勢であった。しかし、イギリス・フランス復古王政(1814年4月6日〜1830年7月29日)・ロシアが介入し、1827年10月20日にギリシャのナヴァリノ湾での海戦で、英仏露連合艦隊がオスマン帝国艦隊に勝利(ナヴァリノの海戦)すると、派生してロシアとオスマン帝国の間で戦争が勃発してロシアが勝利し、オスマン帝国はギリシャ共和国の独立を承認させられた(露土戦争(1828年〜1829年9月14日エディルネ条約(アドリアノープル条約)))。
1830年にはイギリス・フランス復古王政(1814年4月6日〜1830年7月29日)・ロシアがギリシャ共和国の独立を承認した(1830年2月3日ロンドン議定書(1830 Protocol of London))が、英仏露はあくまで英仏露の保護国としてのギリシャの独立を承認しただけであった。
1832年になってイギリス・フランス七月王政(1830年8月9日〜1848年2月24日)・ロシアとオスマン帝国は、ギリシャ独立戦争(1821年3月25日〜1832年8月30日)の講和会議を開いた(1832年2月〜8月30日ロンドン会議)。このなかで、ギリシャ王国の設立を英仏露が決定(5月7日ロンドン会議(Convention of 7 May 1832 between Great Britain, France, Russia, and Bavaria))し、英仏露とオスマン帝国がオスマン帝国とギリシャ王国の国境を確定(コンスタンティノープル条約)して、ギリシャ王国の独立と国境確定を取り決めて講和条約が締結された(1832年8月30日ロンドン議定書(London Protocol of 30 August 1832))。
なお、当初のギリシャ優勢をオスマン帝国が挽回して優勢にまで転じた背景には、オスマン帝国の要請により、エジプト総督ムハンマド・アリーが率いるエジプト軍が参戦したという事情があった。これが、オスマン帝国に世襲統治権を認めさせて(1840年7月15日ロンドン条約)、ムハンマド・アリー朝(1805年5月17日〜1953年6月18日)が正式に成立する機会を与える端緒となった。
1831-1833.5.6 GG 第一次エジプト・トルコ戦争, キュタヒヤ条約
エジプト総督ムハンマド・アリーはギリシャ独立戦争(1821年3月25日〜1832年8月30日)参戦の代償にシリア統治権を要求したが、オスマン帝国は敗戦を理由にこれを拒否した。
1831年にエジプト軍がシリアに侵攻して戦争が勃発した(第一次エジプト・トルコ戦争(First Egyptian–Ottoman War、1831年〜1833年5月6日))。シリアを占領し、イスタンブールまで迫る勢いを見せたエジプト軍に対し、オスマン帝国を支援するロシアが軍をアナトリア半島に派遣した。
ロシアの影響力拡大を防ぎたいイギリスとフランス七月王政(1830年8月9日〜1848年2月24日)が、ムハンマド・アリーとオスマン帝国の双方に講和するように圧力をかけた。1833年5月6日に、ムハンマド・アリーがシリアの統治権を得て戦争は終わった(キュタヒヤ条約(Convention of Kütahya))。
1839-1840.11.27 GG 第二次エジプト・トルコ戦争, アレクサンドリア条約 1840.7.15 ロンドン条約
オスマン帝国が第一次エジプト・トルコ戦争(1831年〜1833年5月6日)で失ったシリアを奪還しようとシリアに侵攻して戦争が勃発した(第二次エジプト・トルコ戦争(Second Egyptian–Ottoman War、1839年〜1840年11月27日))。エジプト軍はふたたびオスマン帝国軍を圧倒したが、オスマン帝国の崩壊を恐れたイギリス・ロシア・オーストリア・プロシアが干渉した。
1840年7月15日に、英露墺普4カ国は、ムハンマド・アリーがシリアの統治権を放棄する代わりにエジプトの世襲統治権を得ること、ウンキャル・スケレッシ条約(1833年7月8日)を破棄してボスポラス海峡およびダーダネルス海峡の外国軍艦の通行を全面禁止にすることで合意(ロンドン条約(Convention of London of 1840))し、ムハンマド・アリーとオスマン帝国の双方に講和するように圧力をかけた。
従わないエジプト軍に対し、イギリス・オーストリア・オスマン帝国連合艦隊が攻撃を加えるなどした結果、エジプト軍は劣勢となり、1840年11月27日にイギリスとアレクサンドリア条約(Convention of Alexandria) を締結して、ロンドン条約の内容を受諾して戦争を終わらせざるを得なかった。
1841.7.13 GG ロンドン海峡条約
1841年7月13日に、イギリス・ロシア・オーストリア・プロシアにフランス七月王政(1830年8月9日〜1848年2月24日)を加えた5カ国が、ロンドン条約(Convention of London of 1840、1840年7月15日)の内容を踏襲するロンドン海峡条約(London Straits Convention)を締結した。
1839年に勃発した第二次エジプト・トルコ戦争(Second Egyptian–Ottoman War、1839年〜1840年11月27日)に、イギリス・ロシア・オーストリア・プロシアは干渉して、ムハンマド・アリーとオスマン帝国の双方に講和するように圧力をかけた。
干渉に先立って、英露墺普4カ国は、ウンキャル・スケレッシ条約(1833年7月8日)を破棄してボスポラス海峡およびダーダネルス海峡の外国軍艦の通行を全面禁止にすることで合意していた(ロンドン条約(Convention of London of 1840、1840年7月15日))。
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