1853.10.16-1856.3.30 GG クリミア戦争, パリ条約
- 四々縦七
- 2022年7月1日
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1852年3月13日にダニーロ1世がモンテネグロ公を自称してモンテネグロ公国を建国した。オスマン帝国がこれに反対すると、モンテネグロ公国軍がオスマン帝国軍に攻撃を仕掛けた。オスマン帝国が反撃して戦況が泥沼化すると、ロシアが和平交渉の仲介役となった。
フランスによる妨害などもあり和平交渉が決裂すると、ロシアとオスマン帝国は国交を断絶した。1853年7月にモルダヴィア・ワラキアに進軍したロシア軍に対してオスマン帝国は撤退勧告を繰り返したが、最後通牒も無視されると1853年10月16日にドナウ川を渡河して攻撃を行い戦争が勃発した(クリミア戦争(1853年10月16日〜1856年3月30日))。
1853年11月30日にロシア艦隊がアナトリア半島北岸の軍港シノープを急襲してオスマン艦隊に大勝すると、イギリスの世論が反ロシアに転じ、1854年3月28日にイギリスとフランス第二帝政(1851年12月2日〜1870年9月4日)がロシアに宣戦布告する事態を招いた。
バルカン半島では、ロシア軍がドナウ川を渡河して南下し、ギリシャの義勇兵が北上してマケドニアやブルガリアでロシアの援助を受けながら反乱を起こしたため、オスマン帝国軍が挟撃される事態となった。イギリスやフランスが圧力をかけて、ギリシャが義勇兵への支援を継続できなくなると各地の反乱は鎮圧され、オスマン帝国軍はロシア軍を再びドナウ川以北まで押し戻したが戦線は膠着した。
1855年9月11日に英仏土伊同盟軍(サルデーニャ王国も同盟軍側で参戦していた)がクリミア半島のセヴァストポリ(ロシアの黒海艦隊の基地)を陥落させる大きな勝利を挙げた(セヴァストポリ包囲戦(1854年9月28日〜1855年9月11日))が、直後にロシア軍に南コーカサスのカルス要塞を陥されるなど決定的な優勢に至れなかった。皇帝ナポレオン3世が国内世論によりフランス軍の撤兵を決めると、同盟軍側も戦争継続は困難となった。
1856年3月30日にオーストリアとプロシアの立会いのもと、英仏土伊同盟国が勝利して講和した(パリ条約(1856年3月30日)、露墺普英仏土伊が署名)。第一にボスポラス海峡およびダーダネルス海峡の外国軍艦の通行を全面禁止にすること(ロンドン海峡条約(1841年7月13日、第二次エジプト・トルコ戦争(1839年〜1840年11月27日)講和後にロンドン条約(1840年7月15日)を英露墺普仏で確認)を再確認したうえ、黒海を非武装化し、第二にモルダヴィア・ワラキアをオスマン帝国自治領として残したうえ、ロシアはドナウ川河口域(エディルネ条約(アドリアノープル条約、露土戦争(1828年〜1829年9月14日)の講和条約)でオスマン帝国がロシアに割譲)をモルダヴィア公国に返還し、さらに第三にオスマン帝国内の正教会信徒の保護権(キュチュク・カイナルジ条約(露土戦争(1768年〜1774年7月21日)の講和条約)でオスマン帝国が承認)を放棄した。
なお、この戦争(クリミア戦争(1853年10月16日〜1856年3月30日))は、バルト海や極東のカムチャツカ半島での戦闘も含んだ。パリ条約(1856年3月30日)により、バルト海のオーランド諸島が非武装地帯に指定された。
また、1859年1月24日にモルダヴィア・ワラキア連合公国(ルーマニア公国)が成立した。緩衝地としてオスマン帝国自治領として留め置かれたモルダヴィア・ワラキアだったが、クリミア戦争(1853年10月16日〜1856年3月30日)によってオスマン帝国も疲弊していたため自治が進んだ。

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