1877.4.24-1878.3.3 GG 露土戦争, サン・ステファノ条約
- 四々縦七
- 2022年8月8日
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1877年4月24日にロシアがオスマン帝国に宣戦布告して戦争が勃発した(露土戦争(1877年4月24日〜1878年3月3日))。
セルビア公国とモンテネグロ公国は1876年6月30日に既にオスマン帝国に宣戦布告しており(セルビア・オスマン戦争、モンテネグロ・オスマン戦争)、モルダヴィア・ワラキア連合公国(ルーマニア公国、1859年1月24日〜)もロシア側で参戦して1877年5月9日にオスマン帝国からの独立を宣言した。
一方、ブルガリア人の四月蜂起(1876年4月20日〜5月)鎮圧時になされたオスマン帝国軍による虐殺にかかる世論により、イギリスですら支援は難しく、オスマン帝国は単独で対処せざるを得なかった。また、オーストリアは秘密裏にロシアと結んで(1876年7月8日ライヒシュタット協定)いて中立を保った。
バルカン半島ではオスマン帝国軍はブルガリアのプレヴェン要塞で抵抗したが孤立化されロシア連合軍が勝利(プレヴェン攻囲戦(1877年7月20日〜12月10日))し、アナトリア半島東部ではロシア軍がカルスを陥落させ(カルスの戦い(1877年11月17日))ると、ロシア軍はイスタンブール近郊まで侵攻した。
1878年3月3日にロシアの勝利で講和し、オスマン帝国はロシアにドニエストル川からプルート川までの地域(ベッサラビア)・ドナウ川河口域・南コーカサス・アナトリア半島東部を割譲し、モルダヴィア・ワラキア連合公国(ルーマニア公国、1859年1月24日〜)・セルビア公国(1817年11月6日〜)・モンテネグロ公国(1852年3月13日〜)の独立を承認し、ブルガリアに自治権を認め(ブルガリア公国の成立)、ボスニア・ヘルツェゴヴィナに自治権を認めた(サン・ステファノ条約)。
なかでも、ブルガリア公国(1878年3月3日〜)の領地は広大でエーゲ海沿岸まで及んでいた。これは、事実上ブルガリアを勢力下に置くロシアが、陸路でエーゲ海に至ることを可能にし、ブルガリア公国のエーゲ海沿岸にロシア艦隊の軍港を築くことも可能にするものだった。サン・ステファノ条約(1878年3月3日)の内容を現実に履行することは、ロシアがバルカン半島ルートの南下政策を完遂することを意味した。

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