1878.6.13-7.13 GG ベルリン会議
- 四々縦七
- 2022年8月9日
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サン・ステファノ条約(1878年3月3日、露土戦争(1877年4月24日〜1878年3月3日)の講和条約)について、強く反対するイギリスや秘密裏にロシアと結び(1876年7月8日ライヒシュタット協定)ながら反対を表明するオーストリアとロシアの利害調整のために、1878年6月13日から7月13日までプロシアでベルリン会議が開催されて英墺露普土仏伊7カ国が参加した。
ベルリン条約(1878年7月13日)では、ブルガリア公国の領地が3分割されてエーゲ海沿岸部は外され、マケドニア・東ルメリがオスマン帝国に返還され、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権を獲得(オーストリア=ハンガリー二重帝国皇帝直轄の共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(1878年7月13日〜1918年)の成立)した。これによりロシアのバルカン半島ルートの南下政策は実現されなかった。
モルダヴィア・ワラキア連合公国(ルーマニア公国、1859年1月24日〜)・セルビア公国(1817年11月6日〜)・モンテネグロ公国(1852年3月13日〜)の独立は承認され、ブルガリアは領地を大幅に縮小されたものの自治権は承認された。しかし、サン・ステファノ条約(1878年3月3日)で自治権を認められたボスニア・ヘルツェゴヴィナは事実上オーストリアに支配されることとなってしまった。
1881年3月15日にはルーマニア王国(〜1947年12月30日王制廃止)が、1882年3月6日にはセルビア王国(〜1918年12月1日セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の成立)が成立した。
イギリスは、ベルリン会議(1878年6月13日〜7月13日)の間に、オスマン帝国と2カ国間で協議し、将来のロシアからの攻撃に際してイギリスが援助することで合意した。そして、その見返りにキプロス島を租借してインド植民との中継地エジプトの防衛力を高めることに成功した。

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