1878.7.13 GG イギリスがキプロス島租借
- 四々縦七
- 2022年8月10日
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イギリスは、ベルリン会議(1878年6月13日〜7月13日)の間に、オスマン帝国と2カ国間で協議し、将来のロシアからの攻撃に際してイギリスが援助することで合意した。そして、その見返りにキプロス島を租借してエジプト(インド植民との中継地)の防衛力を高めることに成功した。
キプロス島は、ジブラルタル(1713年4月11日にスペインから獲得(ユトレヒト条約(スペイン継承戦争(1701年〜1714年)の講和条約))、マルタ島(1815年6月9日にフランスから獲得(ウィーン議定書))と共に、イギリス艦隊が地中海の制海権を維持するための拠点となった。
現在でも、ジブラルタルはイギリスの海外領土でイギリス海軍のジブラルタル戦隊が駐留し、キプロス共和国(1960年8月16日独立)にはイギリス主権基地領域アクロティリおよびデケリアがありイギリスの統治権が及ぶ。マルタは1964年9月21日に独立し、イギリス連邦加盟のマルタ共和国(1974年12月13日〜)からは1979年にイギリス軍が撤退している。

1877.4.24-1878.3.3 GG 露土戦争, サン・ステファノ条約
1877年4月24日にロシアがオスマン帝国に宣戦布告して戦争が勃発した(露土戦争(1877年4月24日〜1878年3月3日))。
セルビア公国とモンテネグロ公国は1876年6月30日に既にオスマン帝国に宣戦布告しており(セルビア・オスマン戦争、モンテネグロ・オスマン戦争)、モルダヴィア・ワラキア連合公国(ルーマニア公国、1859年1月24日〜)もロシア側で参戦して1877年5月9日にオスマン帝国からの独立を宣言した。
一方、ブルガリア人の四月蜂起(1876年4月20日〜5月)鎮圧時になされたオスマン帝国軍による虐殺にかかる世論により、イギリスですら支援は難しく、オスマン帝国は単独で対処せざるを得なかった。また、オーストリアは秘密裏にロシアと結んで(1876年7月8日ライヒシュタット協定)いて中立を保った。
バルカン半島ではオスマン帝国軍はブルガリアのプレヴェン要塞で抵抗したが孤立化されロシア連合軍が勝利(プレヴェン攻囲戦(1877年7月20日〜12月10日))し、アナトリア半島東部ではロシア軍がカルスを陥落させ(カルスの戦い(1877年11月17日))ると、ロシア軍はイスタンブール近郊まで侵攻した。
1878年3月3日にロシアの勝利で講和し、オスマン帝国はロシアにドニエストル川からプルート川までの地域(ベッサラビア)・ドナウ川河口域・南コーカサス・アナトリア半島東部を割譲し、モルダヴィア・ワラキア連合公国(ルーマニア公国、1859年1月24日〜)・セルビア公国(1817年11月6日〜)・モンテネグロ公国(1852年3月13日〜)の独立を承認し、ブルガリアに自治権を認め(ブルガリア公国の成立)、ボスニア・ヘルツェゴヴィナに自治権を認めた(サン・ステファノ条約)。
なかでも、ブルガリア公国(1878年3月3日〜)の領地は広大でエーゲ海沿岸まで及んでいた。これは、事実上ブルガリアを勢力下に置くロシアが、陸路でエーゲ海に至ることを可能にし、ブルガリア公国のエーゲ海沿岸にロシア艦隊の軍港を築くことも可能にするものだった。サン・ステファノ条約(1878年3月3日)の内容を現実に履行することは、ロシアがバルカン半島ルートの南下政策を完遂することを意味した。
1878.6.13-7.13 GG ベルリン会議
サン・ステファノ条約(1878年3月3日、露土戦争(1877年4月24日〜1878年3月3日)の講和条約)について、強く反対するイギリスや秘密裏にロシアと結び(1876年7月8日ライヒシュタット協定)ながら反対を表明するオーストリアとロシアの利害調整のために、1878年6月13日から7月13日までプロシアでベルリン会議が開催されて英墺露普土仏伊7カ国が参加した。
ベルリン条約(1878年7月13日)では、ブルガリア公国の領地が3分割されてエーゲ海沿岸部は外され、マケドニア・東ルメリがオスマン帝国に返還され、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権を獲得(オーストリア=ハンガリー二重帝国皇帝直轄の共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(1878年7月13日〜1918年)の成立)した。これによりロシアのバルカン半島ルートの南下政策は実現されなかった。
モルダヴィア・ワラキア連合公国(ルーマニア公国、1859年1月24日〜)・セルビア公国(1817年11月6日〜)・モンテネグロ公国(1852年3月13日〜)の独立は承認され、ブルガリアは領地を大幅に縮小されたものの自治権は承認された。しかし、サン・ステファノ条約(1878年3月3日)で自治権を認められたボスニア・ヘルツェゴヴィナは事実上オーストリアに支配されることとなってしまった。
1881年3月15日にはルーマニア王国(〜1947年12月30日王制廃止)が、1882年3月6日にはセルビア王国(〜1918年12月1日セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の成立)が成立した。
イギリスは、ベルリン会議(1878年6月13日〜7月13日)の間に、オスマン帝国と2カ国間で協議し、将来のロシアからの攻撃に際してイギリスが援助することで合意した。そして、その見返りにキプロス島を租借してインド植民との中継地エジプトの防衛力を高めることに成功した。

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