7つの列強と新興国家中国
- 四々縦七
- 2021年12月7日
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今回は、21世紀初頭までの現代世界史において、中心的役割を果たし、その結果として他国に大きな影響を与えてきた8つの国家を紹介する。それぞれの国が現代世界史の幕開けをどのように迎えたのか、世界大戦との関係を含めて、ごく簡単にまとめておこう。
ARW/1789.4.30成立:アメリカ合衆国〔亜米利加〕
FRW/1799.11.9成立:フランス帝国(当初は、フランス共和国)〔仏蘭西〕
ARW,FRW,NBW:イギリス(連合王国グレートブリテン)〔英吉利〕
FRW,NBW:ロシア帝国(ロマノフ家)〔露西亜、一時は蘇維埃(ソビエト連邦)〕
GG/1861.3.17成立:イタリア王国(サルデーニャ王国、サヴォイア家)〔伊太利亜〕
GG/1871.1.18成立:ドイツ第二帝国(プロシア王国、ホーエンツォレルン家)〔独逸ないし普魯西〕
GG/1868.1.3明治政府成立:日本
CW/1949.10.1成立:中華人民共和国
【アメリカ〔亜米利加〕】
アメリカは、アメリカ革命戦争(ARW、1775年4月19日〜1783年9月3日)に勝利した植民地の人々が、1789年4月30日にジョージ・ワシントンを大統領に就任させて、イギリスから独立して成立した世界初の国民国家である。
ちなみに、United States of America (USA)という名前の通り、その実態は現代のUnited Nations(国際連合)のような複数の国(独立時は10のStateと3つのCommonwealth)からなる国際機関だった。南北戦争(1861年4月12日〜1865年4月9日)で、USAから分離・独立した複数の国(10のStateと1つのCommonwealth)からなるConfederate States of America (CSA、1861年2月18日〜1865年4月9日)に勝利し、再統合することで国家として一体化した。
アメリカ合衆国は、1865年4月9日にエイブラハム・リンカーン大統領によって成立した国民国家であるとも言える(リンカーン大統領は4月15日に暗殺された)。
【フランス〔仏蘭西〕】
フランスは、アメリカ革命戦争(ARW、1775年4月19日〜1783年9月3日)に影響を受けて勃発したフランス革命(1789年7月14日〜1795年8月22日)中に成立したフランス共和国(第一共和政、1792年9月21日王政廃止宣言〜1804年5月18日帝政宣言)において、ナポレオン・ボナパルトがクーデターを起こして第一統領に就任して実権を握った1799年11月9日に成立した世界で2番目の国民国家である。
1804年5月14日には、ナポレオン・ボナパルトがノートルダム大聖堂で『フランス人民の皇帝』を戴冠してフランス帝国(第一帝政、1804年5月18日帝政宣言〜1814年4月4日NB退位、1815年3月20日〜6月22日NB百日天下)となった。
フランスの場合は、古代に成立したフランス王国(987年〜1792年9月21日)に革命が勃発し成功したものの、国家という『財産ないし共有財産』の所有者は誰なのかという点について国内は大混乱し、周辺国とは戦争になった。アメリカのように、『革命して独立して、議論して準備して、はい建国!』というわけには行かなかったわけである。
ナポレオン・ボナパルトが皇帝になったことについても、フランスは革命前も後もあくまで1つの国であり(つまり共有財産はひとまとまり)、かつ、革命後はずっと戦時下にあったから、国内の所有者争いを収め、かつ、周辺国に領土・財産などを奪われないように、トップダウン型の統治機構が選ばれたわけだ。ジョージ・ワシントンが連合国軍総司令官から横滑りで大統領(現在でもアメリカの大統領の最重要任務の一つは戦争遂行にある)に推されて収まりが良かったアメリカとは事情が違った。
フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)とは、王の私兵や金で雇われる傭兵ではなくフランス人民からなる『国民軍』が、フランスという『国家』を外国の侵略から守る戦いを続ける中で、フランス人民という『国民』がフランス国王の財産だったフランスという『国家』の新しい所有者になって行く過程でもあった。
ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)では、ナポレオン・ボナパルトが指揮するフランス『国民軍』がヨーロッパ大陸全域を制圧するほどの強さを発揮し、フランス人民の共有財産が増加(国民国家の領土が増大)した。最終的に敗北してしまったものの『戦争に強い国民国家』を事実上初めて体現し、諸外国に見せつけたのである。
『国家』は『国民』が所有し共有財産である領土(国土)は『国民軍』が守る。そして、強い『国民軍』が戦争に勝利すれば新しい領土を獲得(共有財産が増加)して『国民』は豊かになる。フランス帝国(当初は、フランス共和国)は、まさに現代世界史の国民国家のロールモデルとなったのである。
現代世界史とは、その始まり(1775年4月19日アメリカ革命戦争勃発)から第二次世界大戦(WWⅡ、1939年9月1日〜1945年9月2日)までの約170年の間、外国から自国の領土を守れるだけの強い軍隊を保有し、優れた外交力を発揮した国だけが『列強』として国家の主権を保持・主張することができた弱肉強食の時代だった。
【イギリス〔英吉利〕】
イギリス(連合王国グレートブリテン)も、ロシア帝国(ロマノフ家)も、ナポレオン・ボナパルトに勝利して現代世界史の黎明期を生き残り、『列強』となった。
イギリスの場合は、古代に成立したイングランド王国(927年〜)が1066年にノルマンディー公国(911年〜1259年)に征服されて、現在までつながる歴史が始まった。1282年にウェールズを征服し1536年にウェールズを統合、1603年にスコットランドと同君連合となり1707年にスコットランドを統合してグレートブリテン王国となり、現代世界史の幕開けを迎えた。1798年に反乱を鎮圧し、1801年にはアイルランドを統合してグレートブリテン及びアイルランド連合王国となっているので、イングランド島とアイルランド島の統合を完了した連合王国イギリスとして現代世界史の幕開けを迎えたということもできるだろう。
連合王国イギリスは、アメリカ革命戦争(1775年4月19日〜1783年9月3日)に敗れてアメリカ植民地こそ失ったものの、古代世界史末期に北アメリカやインドでフランスに対する優位を確立していたので、依然として十分な植民地を有していた。
また、強力な海軍という軍事的優位と本国が島であるという地理的優位により、フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)とナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)を、対仏大同盟参加国の中で唯一、一度も降伏することなく戦い抜き最終的に勝利した。しかも、本国が戦場となることはなく、相対的な被害は最も小さかった。
【ロシア(ロマノフ家)〔露西亜、蘇維埃〕】
ロシアの場合は、長らくモンゴルの支配(1243年にチンギス・ハンの長男ジョチの息子であるバトゥが建国した黄金のオルド(キプチャク=ハン国)の支配)を受けていた。1359年にバトゥ家の王統が断絶して内紛が勃発して長い混乱期が続いたが、1576年にモスクワ大公イヴァン4世がツァーリとなり、遂にモスクワ大公が黄金のオルドの継承者の一人となった。1613年にミハイル・ロマノフがツァーリ(モスクワ大公)に即位してロマノフ朝が成立し、大北方戦争(1700年〜1721年)でスウェーデンに勝利したピョートル1世が1721年に皇帝に即位してロシア帝国(ロマノフ家、〜1917年9月14日)が成立した。1783年には黄金のオルド(クリミア=ハン国)を併合していたから、北の王者(バルト海の王者)にして名実共に黄金のオルドを承継する帝国ロシアとして、現代世界史の幕開けを迎えた。
フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)とナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)では、数度フランスに敗北したものの、焦土作戦によって1812年祖国戦争(1812年6月24日〜12月14日)でモスクワを制圧されながらもナポレオン・ボナパルト率いるフランス国民軍に辛勝し、イギリスと共に最終的な勝利を収めた。
植民地政策としては、1581年に始めたシベリア進出により1649年にはオホーツク海・ベーリング海に到達、中央アジアの諸国を支配下に置き、1689年にネルチンスク条約(ロシアのシベリア進出に対応して満洲北辺の国境確定)や1727年にキャフタ条約(清の北モンゴル進出に対応して北モンゴルの国境確定)を結ぶなど18世紀末までに大清帝国との通商・外交関係を既に構築していた。
こうして現代世界史の幕開けと共に激戦地となったヨーロッパの東西の端に、イギリス(連合王国グレートブリテン)とロシア帝国(ロマノフ家)という2つの『列強』が誕生した。
ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)においてフランス帝国は敗北した。1815年6月9日に締結されたウィーン議定書と1815年11月20日に締結された第二次パリ条約(第七次対仏大同盟が締結、1814年5月30日に第六次対仏大同盟がフランスと締結した第一次パリ条約より厳しい内容)によって、「フランス革命は無かったことにしよう」という王たちの取り決めがなされた。ウィーン体制である。
しかし、そうは問屋がおろさなかった。1830年7月27日に勃発した七月革命(〜29日)によりフランス復古王政(1814年4月6日〜1830年7月29日)は倒れ、1848年2月23日に勃発した二月革命(〜12月2日)によりフランス七月王政(1830年8月9日〜1848年2月24日)も倒れ、フランス第二共和政(1848年2月24日〜1851年12月2日)で選挙により選ばれていたルイ・ナポレオン大統領が1851年12月2日にクーデターを起こし、フランス人民の皇帝に即位してナポレオン3世を名乗りフランス第二帝政(1851年12月2日〜1870年9月4日)がはじまった。
こうしてフランス人民は『王による国の所有』を拒絶して『国民国家』に回帰した。同じような革命の試みはイタリア諸国やドイツ諸邦にも起こり、この1848年革命(諸国民の春)を端緒として、イタリアはサルデーニャ王国(サヴォイア家)を中心に、ドイツはプロシア王国(ホーエンツォレルン家)がオーストリア帝国(ハプスブルク家)を排除して他のドイツ諸邦を統合する形で、それぞれ統一を成し遂げることにつながった。
【イタリア(サヴォイア家)〔伊太利亜〕】
1861年3月17日にサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア王に即位することでイタリア王国を成立させた。イタリアは、フランス第二帝政と密約を交わしてオーストリア帝国(ハプスブルク家)からイタリア北部のロンバルディアを奪い(第二次イタリア独立戦争(1859年4月29日〜7月11日))、プロシア王国(ホーエンツォレルン家)と同盟してオーストリア帝国(ハプスブルク家)からイタリア北部のヴェーネトを奪い(普墺戦争(1866年6月15日〜8月23日))、普仏戦争(1870年7月19日〜1871年5月10日)で教皇領を守護するフランス軍が撤退したのに乗じて教皇領を占領し、翌1871年にローマに遷都した。
【ドイツ(ホーエンツォレルン家)〔独逸、普魯西〕】
1871年1月18日にヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝を戴冠することでドイツ第二帝国を成立させた。ドイツ(プロシア王国、ホーエンツォレルン家)の場合は、オーストリア帝国(ハプスブルク家)と同盟してデンマークに勝利しシュレースヴィヒ公国、ホルシュタイン公国及びザクセン=ラウエンブルク公国を奪い(第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争(1864年2月1〜10月30日))、イタリア王国(サルデーニャ王国、サヴォイア家)と同盟してオーストリア帝国(ハプスブルク家)に勝利(普墺戦争(1866年6月15日〜1866年8月23日)して、オーストリア帝国を盟主とするドイツ連邦(1815年6月8日〜1866年8月23日)を解体させ、自国が主導する北ドイツ連邦(1867年4月16日〜1871年1月18日)を結成し、南ドイツのバーデン大公国・ヴュルテンベルク王国・バイエルン王国と同盟を結んでフランス第二帝政に勝利(普仏戦争(1870年7月19日〜1871年5月10日))して、同戦争中に統一を完成させた。
上記の通り、帰ってきた『国民国家』フランス第二帝政や、『国民国家』になれなかったオーストリア帝国(ハプスブルク家)との複雑な外交・戦争を経て、英露グレートゲーム (GreatGame、1828年2月21日〜1907年8月31日)の後半に、ヨーロッパに2つの統一『国民国家』が誕生し『列強』に名を連ねた。特に強大なドイツ第二帝国(プロシア王国、ホーエンツォレルン家)の誕生は、1907年8月31日に英露協商が締結される形で英露グレートゲームを集結させることになった。
【日本】
英露グレートゲーム (GreatGame、1828年2月21日〜1907年8月31日)の前半に新たな国が現代世界史に登場し、後半に最後の『列強』に名を連ねた。668年に成立し、世界帝国モンゴルの支配も受けず、その後継国家の襲来(元寇)も撃退し、極東に位置した利もあって有色人種の国ながら白人による植民地化を免れていた、日本である。
日本は、1854年3月31日に下田と函館を開港し(日米和親条約)、1858年7月29日に横浜・長崎・新潟・兵庫・函館を開港して(日米修好通商条約)、現代世界史に登場した。1867年11月10日に江戸幕府が政権を返上(大政奉還)すると、1868年1月3日に王政復古して明治政府を成立させ(王政復古の大号令)、同年10月23日に明治に改元した(大日本帝国憲法公布は1889年2月11日)。大清帝国に勝利(日清戦争(1894年7月25日〜1895年4月17日))して李氏朝鮮(1392年〜1897年10月12日大韓帝国に改称)を独立させたうえ台湾と澎湖諸島を獲得し、イギリスと軍事同盟(日英同盟(1902年1月30日)を結んで、1905年9月5日にロシア帝国(ロマノフ家)に勝利(日露戦争(1904年2月6日〜1905年9月5日))して植民地化をかろうじて免れ、同時に『列強』の一角を占めるに至った。
日本が植民地化をかろうじて免れ得たのは、日本人の創意工夫と努力に加えて、英露グレートゲーム (GreatGame、1828年2月21日〜1907年8月31日)後半の複雑な国際環境の影響もあった。
1882年に独墺伊三国同盟が秘密裏に結ばれ、1887年6月18日に独露再保証条約が秘密裏に結ばれていた。ところが、1890年にドイツが独露再保証条約の更新を拒絶したため、秘密裏に結ばれていた露仏同盟が1891年に公然化した(1894年1月4日に公式に同盟締結)。1902年1月30日に栄光ある孤立を保っていたイギリスが日英同盟を締結(東アジアでのロシアの南下阻止で利害一致)すると、普仏戦争(1870年7月19日〜1871年5月10日)に敗北していたフランス第三共和政(1870年9月4日〜1940年6月22日)はドイツの脅威に対処するためにイギリスとも連携する外交政策を展開(1904年4月8日に英仏協商を締結、1907年6月10日に日仏協約を締結、1907年7月30日に日露協約の締結を仲介)し、1907年8月31日の英露協商締結により英露仏日四国協商を成立させたのだ。
2022年現在で1300年を超える歴史を有する日本は、現代世界史に登場してからは約170年、『列強』となってからは約120年、登場後唯一の敗戦(第二次世界大戦(WWⅡ、1939年9月1日〜1945年9月2日))からは約70年という計算になる。
20世紀初頭に日本が、他のアジア諸国同様の植民地となっていたならば、有色人種の独立国家が当たり前に存在する今日の国際社会は未だ実現していなかった可能性がある。なにせ、当時の有色人種の独立国家は、日本、タイ王国、エチオピア帝国、リベリア共和国の4カ国だけだった… 日本は第二次世界大戦(WWⅡ、1939年9月1日〜1945年9月2日)で最終的に敗北したが、米領フィリピンからアメリカを追い出し、英領マラヤからイギリスを追い出し、蘭領東インドからオランダを追い出したことが戦後のアジア植民地の独立につながり、結果的に白人による植民地支配というそれまでの国際社会の常識を終わらせた。
ここまで、アメリカ合衆国、フランス帝国(当初は、フランス共和国)、イギリス(連合王国グレートブリテン)、ロシア帝国(ロマノフ家)イタリア王国(サルデーニャ王国、サヴォイア家)、ドイツ第二帝国(プロシア王国、ホーエンツォレルン家)、日本という7つの『列強』が現代世界史の幕開けをどのように迎えたのか、世界大戦との関係を含めて、ごく簡単に見てきた。これら7つの『列強』が出揃って以降、第一次世界大戦(WWⅠ、1914年7月28日〜1918年11月11日)と第二次世界大戦(WWⅡ、1939年9月1日〜1945年9月2日)が起きた。
【新興国家 中華人民共和国】
そして、米ソ冷戦(ColdWar、1945年2月4日〜1989年12月3日)がはじまって間もない1949年10月1日に中国共産党がクーデターの末に中国国民党政権(中華民国、1912年1月1日〜)を倒して中華人民共和国を成立させた。
ユーラシア大陸東端の”チャイナ”地域は、1644年からモンゴル帝国を承継する大清帝国(〜1912年2月12日)による異民族支配を受けていた。大清帝国は日本に敗北(日清戦争(1894年7月25日〜1895年4月17日)し、日露戦争(1904年2月6日〜1905年9月5日)後に『列強』日本に留学生を送って近代化を図った。これら漢民族の留学生たちが、革命(辛亥革命(1911年10月10日〜1912年2月12日))を起こして成立させたのが中華民国(中国国民党、1912年1月1日〜)である。ご存知のとおり、中華民国は中国共産党に追われて台湾に移り、国民党は現在では野党になっている(2016年より蔡英文総統の民主進歩党が与党)。
中国共産党が結党されたのは1921年7月1日なので、中華人民共和国と辛亥革命には何の関係もない。第二次世界大戦(WWⅡ、1939年9月1日〜1945年9月2日)で日本軍や軍閥と戦っていたのも中華民国の中国国民党軍であり、中国共産党軍ではない。中華人民共和国は、わずか70年ほどの歴史しか持たない新興国家なのだ。
「中国4000年の歴史」という言い回しがあるが、朝日新聞のプロパガンダである。上記の通り、中国(中華人民共和国)の歴史は約70年。広義の中国(中華民国成立以降の漢民族が異民族支配を脱して政治主体となった国家)の歴史でも約110年に過ぎないことを覚えておこう。
このように、英露グレートゲーム (GreatGame、1828年2月21日〜1907年8月31日)までに『米仏英露伊独日』の7列強が現代世界史の舞台に現れ、第一次世界大戦(WWⅠ、1914年7月28日〜1918年11月11日)と第二次世界大戦(WWⅡ、1939年9月1日〜1945年9月2日)があり、米ソ冷戦(ColdWar、1945年2月4日〜1989年12月3日)中に『中』が現れて覇権国となり、現在に至る。
ソ連を崩壊させたアメリカが束の間唯一の覇権国となったかに思われたが、経済力を背景に軍事増強した中華人民共和国が2017年頃から対立を激化させた。そして、現在進行中のロシアのウクライナ侵攻(2022年2月24日〜)により、全体主義国家『中露』vs民主主義・自由主義国家『米英日仏伊独』という対立が鮮明となったのが現在と言える。
いずれにしても、現代世界史における諸国の地政学を見ていく中で、『米仏英露伊独日中』は頻繁に登場してくることになる。

参照文献:宮脇敦子「世界史のなかの蒙古襲来」扶桑社
参照文献:岡田英弘「日本史の誕生」ちくま文庫
参照文献:石平「中国共産党暗黒の百年史」飛鳥新社
参照文献:林建良「中国癌との最終戦争 人類の未来を賭けた一戦」勉誠出版
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