アフガニスタン 1747-1973.7.17
- 四々縦七
- 2022年7月14日
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ドゥッラーニー帝国 1747.10-1826
ドゥッラーニー帝国(1747年10月〜1826年)の初代シャーであるアフマド・シャー・ドゥッラーニーは、1747年10月にロヤ・ジルガ(大会議)において新たなパシュトゥーン人の指導者に選出された。現代アフガニスタンでも国民の父と称されている。
帝国の領域は、アフガニスタン、パキスタン、イラン北部、トルクメニスタン東部、インド北西部におよんだ。
アフガニスタンは、現代世界史の始まり(1775年4月19日)を強大な帝国として迎えた。
バーラクザイ朝 1826-1973.7.17
バーラクザイ朝(1826年〜1973年7月17日)は、アフガニスタン・ハーン国(1826年〜1835年、君主称号ハーン)、アフガニスタン首長国(1835年〜1926年6月9日、君主称号アミール)、アフガニスタン王国(1926年6月9日〜、君主称号シャー)、と変化しつつも約150年間つづいた王朝である。約40年間だけ、イギリスの保護国とされていた。
【英露グレートゲーム(1828年2月21日〜1907年8月31日)】
英露グレートゲームのなか、1881年にイギリスに外交権を奪われて保護国となり(第二次アフガン戦争(1878年11月〜1881年))、ロシアもイギリスの勢力圏であることを認めていた(英露協商(1907年8月31日))。
【第一次世界大戦(1914年7月28日〜1918年11月11日)】
しかし、第一次世界大戦直後に、イギリスから外交権を取り戻して独立した(第三次アフガン戦争(1919年5月6日〜8月8日))。
【第二次世界大戦(1939年9月1日〜1945年9月2日)】
To Come
【米ソ冷戦(1945年2月4日〜1989年12月3日)】
To Come
【ポスト米ソ冷戦】
To Come
現在のアフガニスタンの領土
現在のアフガニスタンの領土は、南から時計回りに、パキスタン・イラン・トルクメニスタン・ウズベキスタン・タジキスタン・中華人民共和国と国境を接している。

1838.10.1-1842.10 GG 第一次アフガン戦争
イギリス東インド会社は、ロシアの南下政策に対抗するためにアフガニスタン領内への進駐を要求したが、アフガニスタン(バーラクザイ朝(1826年〜1973年7月17日))の同意を得られず1838年10月1日に宣戦布告(Simlah Manifesto)した。
1842年10月に、戦争継続が困難となったイギリスは、投降していたアフガニスタン(バーラクザイ朝(1826年〜1973年7月17日))国王の帰国を認めて、この戦争(第一次アフガン戦争(1838年10月1日〜1842年10月))は終わった。
1856.11.1-1857.3.4 GG イギリス・ペルシア戦争
1856年に、ペルシア(ガージャール朝(1779年〜1925年12月15日))がヘラート(現在のアフガニスタン北西に位置する都市)への支配権を得ようとしてイギリスと対立、ヘラート周辺とペルシア南部で戦争となった。1857年にイギリスが勝利して、ペルシアのヘラートからの撤退と、イギリスのペルシア領内からの撤退を約して講和(1857年3月4日パリ条約)し、戦争は終結した。
この戦争(イギリス・ペルシア戦争(1856年11月1日〜1857年3月4日))の後、ペルシアのカスピ海東岸地域(現在のトルクメニスタン領地)への影響力が低下した結果、ロシアの同地域への進出を許すことになった。
1878.11−1881 GG 第二次アフガン戦争, ガンダマク条約
ロシアが1868年にブハラ・アミール国、1873年にヒヴァ・ハン国を保護国とし、1876年にはコーカンド・ハン国を併合して中央アジアに進出していた。イギリスはロシアの南下政策に危機感をもち、1878年11月にイギリス領インド帝国軍がアフガニスタンに侵攻して戦争がはじまった。
1879年5月26日に締結したガンダマク条約をカンダハールの戦い(1880年9月1日)の後に再確認。イギリスは1881年まで駐留をつづけた。この戦争(第二次アフガン戦争(1878年11月〜1881年))の結果、イギリスはアフガニスタン(バーラクザイ朝(1826年〜1973年7月17日))の外交権を奪って保護国とした。
1907.8.31 GG 英露協商
英露協商(1907年8月31日)により、イギリスとロシアは、ペルシア(イラン)、アフガニスタン、チベットにおける互いの勢力圏を確認した。英露対立ではじまった英露グレートゲーム(GreatGame、1828年2月21日〜1907年8月31日)は、これにより終結した。
ペルシア(イラン):ガージャール朝(1779年〜1925年12月15日)の独立を認めつつ、北部をロシアの、南部をイギリスの勢力圏として、その間を緩衝地帯とする
アフガニスタン:バーラクザイ朝(1826年〜1973年7月17日)をイギリスの勢力圏とする
チベット:介入せず緩衝地帯とする
1919.5.6〜8.8 第三次アフガン戦争, ラーワルピンディー条約
第一次世界大戦(WWⅠ、1914年7月28日〜1918年11月11日)直後の1919年5月3日にアフガニスタン(バーラクザイ朝(1826年〜1973年7月17日))がカイバル峠国境に軍を進めると、イギリスは5月6日に宣戦布告した。
戦況は膠着したため、8月8日には講和した(ラーワルピンディー条約)。この戦争(第三次アフガン戦争(1919年5月6日〜8月8日))に勝利して、アフガニスタン(バーラクザイ朝(1826年〜1973年7月17日))は外交権を回復して独立国となった。

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