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1818.2.12 チリ共和国🇨🇱#106 サン・マルティンの置き土産で国民国家誕生

  • 執筆者の写真: 四々縦七
    四々縦七
  • 2022年6月1日
  • 読了時間: 4分

1817年2月12日にホセ・デ・サン・マルティン率いるアンデス軍が、チリ亡命者のベルナルド・オイギンスと共にアンデス越えを敢行してスペイン軍に勝利し(チャカブコの戦い)、2月16日にベルナルド・オイギンスがチリ共和国大統領に就任(〜1823年1月27日)して、1818年2月12日にチリ共和国の独立を宣言した。


独立宣言してまもない4月5日にホセ・デ・サン・マルティンとベルナルド・オイギンスが率いるチリ・アンデス連合軍がスペイン軍に勝利して(マイプーの戦い)、独立を確実にした。


1817年にアンデス山脈を超えてやって来たホセ・デ・サン・マルティンは、1818年にチリを解放して、1820年にはペルー解放のために風のように去って行き二度と戻らなかった。ドラマか?


ベルナルド・オイギンス大統領(1817年2月16日〜1823年1月27日)が自由主義的改革を進めると、保守主義者と自由主義者との対立を招いたが保守派が勝利し(チリ内戦(1829年〜1830年))、ディエゴ・ポルターレスが1833年憲法による強力な保守支配を実現してパラグアイ共和国と同様にチリ共和国に国内の安定をもたらした。

チリの国旗
チリの国旗
【スペイン副王領リオ・デ・ラ・ブラタにおける独立運動の胎動】

ナポレオン戦争の最中、1808年5月2日に半島戦争(〜1814年5月30日)が勃発していたころ、1808年6月6日にジョゼフ・ボナパルト(ナポレオン・ボナパルトの兄)がスペイン王ホセ1世として即位した。


ホセ1世の推戴を拒否するスペイン植民地各地では独立運動が相次ぎ、1810年5月25日にスペイン副王領リオ・デ・ラ・ブラタのブエノスアイレスで五月革命が勃発して、リオ・デ・ラ・プラタ諸州連合(後のアルゼンチン)が独立を宣言した。なお、パラグアイはブエノスアイレス主導の独立を認めず、1811年5月14日にパラグアイ共和国としてスペイン副王領リオ・デ・ラ・プラタからの独立を宣言した。


1816年7月9日にリオ・デ・ラ・プラタ諸州連合(後のアルゼンチン)が正式に独立を宣言し(トゥクマンの議会)、1817年にはホセ・デ・サン・マルティン率いるアンデス軍がチリ・ペルー・アルトペルー遠征を開始した。


【チリ独立宣言, チャカブコの戦い, マイプーの戦い】

チリ・ペルー・アルトペルー遠征の初戦として、ホセ・デ・サン・マルティン率いるアンデス軍は、チリ亡命者のベルナルド・オイギンスと共にアンデス越えを敢行して1817年2月12日にスペイン軍に勝利した(チャカブコの戦い)。


2月16日にベルナルド・オイギンスがチリ共和国大統領に就任(〜1823年1月27日)し、1818年2月12日にチリ共和国の独立を宣言し、4月5日にホセ・デ・サン・マルティンとベルナルド・オイギンスが率いるチリ・アンデス連合軍がスペイン軍に勝利して(マイプーの戦い)、独立を確実にした。


ベルナルド・オイギンス大統領は5年弱でクーデターで倒されるものの、独立記念日とされている1818年2月12日をもって、国民国家チリ共和国が成立したと考えるべきだろう。


【サン・マルティンのペルー遠征, スクレのアヤクーチョの戦い】

スペイン副王領ペルーはポトシ鉱山などで大量に銀を産出する最重要の植民地であった。副王領リオ・デ・ラ・ブラタや副王領ヌエバ・グラナダで1810年ころから独立運動が相次いだが、副王領ペルーでは独立反対派が強く、アルトペルー(現在のボリビア領地に相当する地域)を併合して、スペイン軍の最大の拠点となっていた。


1820年8月21日にホセ・デ・サン・マルティン率いるチリ・アンデス連合軍は、チリから海路でペルーに向けて出航し、9月7日にペルーに上陸して侵攻を開始した。チリ・アンデス連合軍は緒戦に勝利しスペイン軍は内陸に撤退したため、1821年7月28日にリマでホセ・デ・サン・マルティンがペルーの独立を宣言した。


シモン・ボリバル率いる大コロンビア軍が1822年5月24日にスペイン軍に勝利してエクアドルを解放(ピチンチャの戦い)すると、7月26日にシモン・ボリバルとホセ・デ・サン・マルティンがグアヤキルで会談し、意見の相違から9月22日にシモン・ボリバルにペルー独立の指揮を託してホセ・デ・サン・マルティンはペルーを去ってしまった。


1823年12月10日にシモン・ボリバルはリマに遠征し、ペルー軍は1824年8月6日にシモン・ボリバルの指揮下でスペイン軍に勝利し(フニンの戦い)、12月9日にアントニオ・ホセ・デ・スクレの指揮下でスペイン軍に勝利して(アヤクーチョの戦い)、独立を確実にした。1826年までにスペイン軍の残党も降伏した。


スペイン軍を駆逐した画期として、アヤクーチョの戦い(1824年12月9日)をもって国民国家ペルー共和国が成立したと考えるべきであろう。しかし、ペルーに安定した政権は生まれなかった。






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