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1831.10.20 コロンビア(ヌエバ・グラナダ)共和国🇨🇴#115 大コロンビア分裂で誕生

  • 執筆者の写真: 四々縦七
    四々縦七
  • 2022年6月23日
  • 読了時間: 6分

1831年10月20日に、ヌエバ・グラナダ共和国(〜1858年4月11日)が成立し、1832年10月7日にフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルが初代大統領に就任した。ヌエバ・グラナダ共和国は現在のコロンビア共和国であり、その領土は現在のコロンビアとパナマを中心とする地域であった。


コロンビア(ヌエバ・グラナダ共和国)はベネズエラとエクアドルと共に、シモン・ボリバルとフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルやアントニオ・ホセ・デ・スクレによって、大コロンビア(1819年12月17日〜1831年11月19日)としてスペイン副王領ヌエバ・グラナダから独立を達成した。しかし、1830年1月13日にベネズエラが独立を宣言し、5月13日に南部地区(現在のエクアドルにあたる地域)も独立を宣言し、アントニオ・ホセ・デ・スクレは暗殺され、12月17日にシモン・ボリバルが死去して崩壊してしまった。


ベネズエラ人のシモン・ボリバルがコロンビアにとっても解放者(El Libertador)にあたるのは、こういった事情からだ。ちなみに、シモン・ボリバルはコロンビア(ヌエバ・グラナダ共和国)、ベネズエラ、エクアドル、ペルー、ボリビア5カ国の解放者(El Libertador)だ。


コロンビア(ヌエバ・グラナダ共和国)は、複数で集まってスペイン副王領からの独立を達成するけど、すぐに仲違いしてバラけてしまい、そのタイミングを広義の「国民国家の誕生」とみなすべき第四のパターンの中で、残された側としてメキシコやエルサルバドルに似ている。独立記念日については、コロンビアはボゴタでクンディナマルカ共和国が独立を宣言した1810年7月20日を制定している。

コロンビアの国旗
コロンビアの国旗
【スペイン副王領ヌエバ・グラナダにおける独立運動の胎動】

ナポレオン戦争の最中、1808年5月2日に半島戦争(〜1814年5月30日)が勃発していたころ、1808年6月6日にジョゼフ・ボナパルト(ナポレオン・ボナパルトの兄)がスペイン王ホセ1世として即位した。


ホセ1世の推戴を拒否するスペイン植民地各地では独立運動が相次ぎ、スペイン副王領ヌエバ・グラナダでは、1810年4月19日にベネズエラ革命戦争が勃発(〜1823年7月24日)し、7月20日にボゴタでクンディナマルカ共和国(後のコロンビア)が独立を宣言し1811年4月1日には他州と合流してヌエバ・グラナダ諸州連合を成立させた。また、1811年7月5日にベネズエラ第一共和国が成立して独立を宣言した。翌1812年7月25日には崩壊したが、徹底抗戦を主張するシモン・ボリバルはヌエバ・グラナダ諸州連合の支援を得てカラカスを奪回し、1813年8月7日にベネズエラ第二共和国(〜1814年6月16日)を成立させた。


パリが陥落(1814年3月31日)する直前、1814年3月にスペイン王フェルナンド7世が復位すると、5月にはスペイン1812年憲法(カディス憲法)を拒絶して絶対王政の回復を目指した。


スペイン副王領ヌエバ・グラナダでは、1814年6月にはスペイン軍がベネズエラ第二共和国(1813年8月7日〜1814年6月16日)を占領し、鎮圧のためにスペイン軍も増派した。シモン・ボリバルも1815年にイギリス領ジャマイカへの亡命を余儀なくされた。


【大コロンビアの成立】

1817年に、ハイチの援助を得たシモン・ボリバルがベネズエラに上陸して、アンゴストゥーラを攻略してベネズエラ第三共和国(1817年〜1819年12月17日)を成立させると、1819年2月15日にアンゴストゥーラで、1816年5月にスペイン軍にボゴタを制圧されていたヌエバ・グラナダ諸州連合の独立派残党も含めた会議を開催し、シモン・ボリバルを大統領とする大コロンビアの建国に合意した。シモン・ボリバルは、フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルと共に、1819年8月7日にボヤカ高原でスペイン軍に決定的な勝利を挙げて(ボヤカの戦い)、8月10日にボゴタを解放した。


1819年12月17日にアンゴストゥーラで、シモン・ボリバルはコロンビア共和国の大統領兼軍総司令官に就任し、大コロンビア(1819年12月17日〜1831年11月19日、その領域は最大で現在のベネズエラ・コロンビア・パナマ・エクアドル全域に及んだ)の建国を宣言した。シモン・ボリバルはベネズエラ、エクアドル、ペルー、アルトペルーへと遠征を続け、フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルは副大統領として大コロンビアを統治した。


【残存スペイン軍の掃討】

シモン・ボリバルは、1821年6月24日にベネズエラに侵攻してスペイン軍に対し決定的な勝利を挙げてカラカスを奪還した(コラボボの戦い)。1823年7月24日にマラカイボ湖で、大コロンビア艦隊がスペイン艦隊に勝利(マラカイボ湖の海戦)して、ベネズエラ革命戦争(1810年4月19日〜1823年7月24日)がようやく終わった。


エクアドルのキト、グアヤキルなどにもスペイン軍が残存していたが、1822年にはシモン・ボリバル率いる大コロンビア軍がエクアドルに遠征し、1822年5月24日にアントニオ・ホセ・デ・スクレ率いる部隊がスペイン軍に勝利(ピチンチャの戦い)して、エクアドル全域も大コロンビアに合流した。


【大コロンビアの崩壊】

エクアドル、ペルー、アルトペルーへと遠征を続けるシモン・ボリバルと、大コロンビアで留守を守るフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルとの関係が悪化し、シモン・ボリバルが帰国しても両者の関係は改善されなかった。


1828年8月27日にシモン・ボリバルが事実上のクーデターを起こして終身大統領に就任し、フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルは副大統領を解任された。フランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルはクーデターを計画していたが、9月25日にシモン・ボリバル暗殺未遂事件が発生し、事件への関与を疑われたフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルは国外追放となりフランスに亡命した。


政権中枢の求心力なくして、元々は別々にスペインからの独立運動を起こしていたベネズエラ・コロンビア(ヌエバ・グラナダ)・エクアドルの結束を維持することは難しかった。1830年1月13日にベネズエラが大コロンビアからの独立を宣言した。同年5月13日に南部地区(現在のエクアドルにあたる地域)も大コロンビアからの独立を宣言した。分離に反対していたアントニオ・ホセ・デ・スクレも、同年中に暗殺された。


1830年12月17日にシモン・ボリバルが死去し、ボリバル派のラファエル・ウルダネータが政権を維持していたが、サンタンデル派が勢力を取り戻してラファエル・ウルダネータを国外に追放した。1831年10月20日に、残されたコロンビアとパナマを中心とする地域に、ヌエバ・グラナダ共和国(〜1858年4月11日)が成立し、1832年10月7日にフランシスコ・デ・パウラ・サンタンデルが初代大統領に就任した。


大コロンビアの崩壊は、ベネズエラ、エクアドル、コロンビア(ヌエバ・グラナダ共和国)それぞれにとっての国民国家の成立を意味した。ちなみに独立記念日については、エクアドルはキトの革命評議会による自治運動が始まった1809年8月10日を、コロンビアはボゴタでクンディナマルカ共和国が独立を宣言した1810年7月20日を、ベネズエラはベネズエラ第一共和国(1811年7月5日〜1812年7月25日)が成立した1811年7月5日を、それぞれが制定している。

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