1821.12.1 スペイン人ハイチ共和国(ドミニカ共和国)🇩🇴#107 スペインから独立🇪🇸
- 四々縦七
- 2022年6月7日
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イスパニョーラ島東部のスペイン領サントドミンゴは、1795年7月22日にフランスに割譲されていた(第二次バーゼル条約。ピレネー戦争(1793年3月7日〜1795年7月22日)の講和条約)が、ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)中の1804年1月1日に西部のフランス植民地サン=ドマングと一体でハイチ共和国として独立した。
しかし、旧スペイン領サントドミンゴは不安定な状態がつづいた。
まず、ナポレオン戦争がつづくなか1808年5月2日に半島戦争(〜1814年5月30日第一次パリ条約)が勃発すると、1809年にはスペインがサントドミンゴを再占領し、第一次パリ条約でスペイン領サントドミンゴとして植民地に戻された。
次に、ナポレオン戦争が終わってスペイン立憲革命(1820年1月1日〜1823年11月7日)が勃発すると、1821年12月1日にスペイン人ハイチ共和国(〜1822年2月9日)としてスペインから改めて独立した。
ところが、翌1822年2月9日にハイチ共和国に再統合・併合(〜1844年2月27日)され、1844年にドミニカ共和国としてハイチ共和国から独立するも、1861年にスペインに再併合されることを選び、1865年8月16日にスペインから再独立した。ハイチ共和国とドミニカ共和国が平和条約を結んだのは1875年のことだった。
ドミニカ共和国(スペイン人ハイチ共和国)の独立の歴史は、フランス革命(1789年7月14日〜1795年8月22日)、ハイチ革命戦争(1791年8月22日〜1804年1月1日)、ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)、スペイン立憲革命(1820年1月1日〜1823年11月7日)すべてに関わっていたのだ。スペインにとって重要な植民地であったと同時に、何の因果か同じ島の西部に世界で3番目の国民国家ハイチ共和国が存在したというイスパニョーラ島東部ならではの条件が不安定な政情の原因だった。

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