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1824.10.10 メキシコ合衆国🇲🇽#109 ヌエバ・エスパーニャを継ぐ巨大国民国家の誕生

  • 執筆者の写真: 四々縦七
    四々縦七
  • 2022年6月13日
  • 読了時間: 6分

メキシコ革命戦争(1810年9月16日〜1821年9月15日)に勝利し、1822年7月21日にアグスティン・デ・イトゥルビデがアグスティン1世に即位して第一次メキシコ帝国が成立したが、1823年3月19日にはアグスティン1世の亡命により滅亡してしまった。


1824年10月4日に新憲法(1824年のメキシコ合衆国連邦憲法)が採択され、10月10日にグアダルーペ・ビクトリアが初代大統領(臨時大統領職:1824年10月10日〜25年3月31日、正式任期:1825年4月1日〜1829年4月1日)に就任して、国民国家メキシコ合衆国がようやく成立した。


メキシコ合衆国は、複数で集まってスペイン副王領からの独立を達成するけど、すぐに仲違いしてバラけてしまい、そのタイミングを広義の「国民国家の誕生」とみなすべき第四のパターンの中で、残された側としてコロンビア(ヌエバ・グラナダ共和国)やエルサルバドルに似ている。


とはいえ、建国当時のその領土は広大で、メキシコがアメリカを凌ぐ強国になっていたとしても不思議に思わないくらいだ。第一次メキシコ帝国の滅亡直後にグアテマラ総督領が独立を宣言していたので、当該地域を除いたスペイン副王領ヌエバ・エスパーニャの旧領がメキシコ合衆国の領域となったわけだが、その領域は現在のメキシコ領土に加え、現在のアメリカのテキサス・カンザス・ニューメキシコ・コロラド・ワイオミング・アリゾナ・ユタ・ネヴァダ・カリフォルニアの9州を含んでいた。1824年10月10日に誕生したメキシコ合衆国は、ヌエバ・エスパーニャを継ぐ巨大国民国家であったこと(そして、その巨大領土を奪ったのはアメリカ合衆国であること)を見落とすと、現代におけるアメリカとメキシコの外交関係を見誤るだろう。


独立記念日については、メキシコ合衆国はミゲル・イダルゴの演説(ドロレスの叫び)によりメキシコ革命戦争(1810年9月16日〜1821年9月15日)が勃発した1810年9月16日を制定している一方で、グアテマラ総督領の諸国(グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ)はメキシコ革命戦争の終わった1821年9月15日を制定している。

【スペイン副王領ヌエバ・エスパーニャにおける独立運動の胎動】

1808年5月2日に半島戦争(1808年5月2日〜1814年5月30日第一次パリ条約)が勃発していたころ、6月6日にジョゼフ・ボナパルト(ナポレオン・ボナパルトの兄)がスペイン王ホセ1世(在位:1808年6月6日〜1813年12月11日)として即位した。


ホセ1世の推戴を拒否するスペイン植民地各地では独立運動が相次ぎ、1810年9月16日にスペイン副王領ヌエバ・エスパーニャでメキシコ革命戦争(1810年9月16日〜1821年9月15日)が勃発して、ミゲル・イダルゴが独立を宣言した。


フランス本土に北からロシア・オーストリア・プロシア・スウェーデン連合軍が、南からイギリス・スペイン・ポルトガル連合軍が侵攻する事態となり、パリが陥落(1814年3月31日)する直前、1814年3月にスペイン王フェルナンド7世(在位:1808年3月19日〜5月6日、1814年3月〜1833年9月29日)が復位した。


復位してすぐの1814年5月には、フェルナンド7世は半島戦争(1808年5月2日〜1814年5月30日第一次パリ条約)の最中にスペイン国民議会が公布したスペイン1812年憲法(カディス憲法)を拒絶し、絶対王政の回復を目指した。


スペイン副王領ヌエバ・エスパーニャでは、1816年に北部スペイン軍の司令官となったアグスティン・デ・イトゥルビデが、反乱軍の指導者のひとりビセンテ・ゲレロと秘密裏に接触していた。


【メキシコ革命戦争に勝利, メキシコ第一帝政の成立】

スペイン立憲革命(1820年1月1日〜3月10日カディス憲法復活〜1823年11月7日リエゴ・イ・ヌニェス処刑)によりスペイン本国で自由派が政権を握ると、スペイン副王領ヌエバ・エスパーニャにおいて保守派のアグスティン・デ・イトゥルビデが指揮下のスペイン軍を率いて反乱軍に合流した(3つの保証軍)。


1821年2月24日にアグスティン・デ・イトゥルビデとビセンテ・ゲレロは、カトリック優先・メキシコの独立(ただしフェルナンド7世を戴く立憲君主国として)・スペイン出身者とメキシコ出身者の政治的・社会的平等を謳うイグアラ綱領を発表した(3つの保証と呼ばれ、宗教・独立・統一と要約される)。


イグアラ綱領を掲げて反乱軍をまとめ上げると、1821年8月24日にアグスティン・デ・イトゥルビデはヌエバ・エスパーニャ副王フアン・オドノフにイグアラ綱領を追認させ(コルドバ条約)、9月15日にメキシコシティに無血入城して、メキシコ革命戦争(1810年9月16日〜1821年9月15日)に勝利した。


1822年7月21日にアグスティン・デ・イトゥルビデがアグスティン1世に即位して第一次メキシコ帝国(1822年7月21日〜1823年3月19日)が成立した。スペイン王フェルナンド7世(在位:1808年3月19日〜5月6日、1814年3月〜1833年9月29日)はメキシコ皇帝への即位を拒絶していたため、アグスティン・デ・イトゥルビデは仕方なく戴冠した。


スペインはコルドバ条約を「違法、無価値、無効」なものとして拒絶し、1836年12月28日にサンタ・マリア=カラトラバ条約を締結してメキシコの独立を承認するまで、メキシコの再征服を狙っていた。


【メキシコ合衆国の成立】

メキシコ革命戦争(1810年9月16日〜1821年9月15日)に勝利し、1822年7月21日にアグスティン・デ・イトゥルビデがアグスティン1世に即位して第一次メキシコ帝国が成立したが、1823年3月19日にはアグスティン1世の亡命により滅亡してしまった。


1824年10月4日に新憲法(1824年のメキシコ合衆国連邦憲法)が採択され、10月10日にグアダルーペ・ビクトリアが初代大統領(臨時大統領職:1824年10月10日〜25年3月31日、正式任期:1825年4月1日〜1829年4月1日)に就任して、国民国家メキシコ合衆国がようやく成立した。


第一次メキシコ帝国(1822年7月21日〜1823年3月19日)の滅亡直後にグアテマラ総督領(グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ)が独立を宣言していたので、当該地域を除いたスペイン副王領ヌエバ・エスパーニャの旧領がメキシコ合衆国の領域となった。その領域は現在のメキシコ領土に加え、現在のアメリカのテキサス・カンザス・ニューメキシコ・コロラド・ワイオミング・アリゾナ・ユタ・ネヴァダ・カリフォルニアの9州を含む広大なものだった。


【中央アメリカ連邦共和国の成立と崩壊】

第一次メキシコ帝国(1822年7月21日〜1823年3月19日)が滅亡すると、1823年7月1日にスペイン副王領ヌエバ・エスパーニャの下位行政組織だったグアテマラ総督領(グアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカ)が独立を宣言し、中央アメリカ諸州連合(後のグアテマラ)が成立した。


1824年1月には憲法が制定され、1825年4月29日にマヌエル・ホセ・アルセが初代大統領に就任して中央アメリカ連邦共和国が成立した。


しかし、保守主義のグアテマラと自由主義のエルサルバドル、ホンジュラスとの間で内戦が勃発し、1838年5月31日にニカラグアが独立し、同年11月5日にホンジュラスが独立し、同年11月14日にコスタリカが独立し、1841年2月18日にエルサルバドルが独立して中央アメリカ連邦共和国は崩壊した。


中央アメリカ連邦共和国の崩壊は、ニカラグア、ホンジュラス、コスタリカ、エルサルバドル、グアテマラそれぞれにとっての国民国家の成立を意味した。なお、現在のグアテマラ、エルサルバドル、ホンジュラス、ニカラグア、コスタリカはそれぞれ、メキシコ革命戦争(1810年9月16日〜1821年9月15日)が成功した1821年9月15日を独立記念日として制定している。


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