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1824.12.9 ペルー共和国🇵🇪#110 サン・マルティン,ボリバル,スクレによって誕生

  • 執筆者の写真: 四々縦七
    四々縦七
  • 2022年6月14日
  • 読了時間: 4分

スペイン副王領ペルーはポトシ鉱山などで大量に銀を産出する最重要の植民地であったこともあって独立反対派が強く、アルトペルー(現在のボリビア領地に相当する地域)を併合して、スペイン軍の最大の拠点となっていた。


1820年8月21日にホセ・デ・サン・マルティン率いるチリ・アンデス連合軍がチリから海路でやって来て、9月7日にペルーに上陸して侵攻を開始した。チリ・アンデス連合軍は緒戦に勝利しスペイン軍は内陸に撤退したため、1821年7月28日にリマでホセ・デ・サン・マルティンがペルーの独立を宣言した。


独立運動は一時膠着したが、1822年にホセ・デ・サン・マルティンからシモン・ボリバルに独立運動の指揮権がバトンタッチ!?されると、1823年12月10日にシモン・ボリバルはリマに遠征し、ペルー軍は1824年8月6日にシモン・ボリバルの指揮下でスペイン軍に勝利し(フニンの戦い)、12月9日にアントニオ・ホセ・デ・スクレの指揮下でスペイン軍に勝利して(アヤクーチョの戦い)、独立を確実にした。1826年までにスペイン軍の残党も降伏した。


スペイン軍を駆逐した画期として、アヤクーチョの戦い(1824年12月9日)をもって国民国家ペルー共和国が成立したと考えるべきであろう。しかし、ペルーに安定した政権は生まれなかった。

べルーの国旗
べルーの国旗(ペルーの公的機関が使用する旗の中央に国章が入ったバージョン)
【サン・マルティンのペルー遠征, スクレのアヤクーチョの戦い】

スペイン副王領ペルーはポトシ鉱山などで大量に銀を産出する最重要の植民地であった。副王領リオ・デ・ラ・ブラタや副王領ヌエバ・グラナダで1810年ころから独立運動が相次いだが、副王領ペルーでは独立反対派が強く、アルトペルー(現在のボリビア領地に相当する地域)を併合して、スペイン軍の最大の拠点となっていた。


1820年8月21日にホセ・デ・サン・マルティン率いるチリ・アンデス連合軍は、チリから海路でペルーに向けて出航し、9月7日にペルーに上陸して侵攻を開始した。チリ・アンデス連合軍は緒戦に勝利しスペイン軍は内陸に撤退したため、1821年7月28日にリマでホセ・デ・サン・マルティンがペルーの独立を宣言した。


シモン・ボリバル率いる大コロンビア軍が1822年5月24日にスペイン軍に勝利してエクアドルを解放(ピチンチャの戦い)すると、7月26日にシモン・ボリバルとホセ・デ・サン・マルティンがグアヤキルで会談し、意見の相違から9月22日にシモン・ボリバルにペルー独立の指揮を託してホセ・デ・サン・マルティンはペルーを去ってしまった。


1823年12月10日にシモン・ボリバルはリマに遠征し、ペルー軍は1824年8月6日にシモン・ボリバルの指揮下でスペイン軍に勝利し(フニンの戦い)、12月9日にアントニオ・ホセ・デ・スクレの指揮下でスペイン軍に勝利して(アヤクーチョの戦い)、独立を確実にした。1826年までにスペイン軍の残党も降伏した。


スペイン軍を駆逐した画期として、アヤクーチョの戦い(1824年12月9日)をもって国民国家ペルー共和国が成立したと考えるべきであろう。しかし、ペルーに安定した政権は生まれなかった。


【アルトペルー共和国の独立, ボリビア共和国に改名】

アヤクーチョの戦い(1824年12月9日)の敗戦後も、スペイン軍はアルトペルーのエル・カヤオの要塞とチュキサカに残っていた。ペドロ・アントニオ・オラニェタ率いるチュキサカの軍勢は抵抗を続け、兵の脱走なども相次いだが、ペドロ・アントニオ・オラニェタ自身が4月13日に致命傷を負うまで降伏はしなかった。


1825年4月25日に、アントニオ・ホセ・デ・スクレがチュキサカに入城した。7月10日から開催された会議でアルゼンチンとの連合、ペルーとの連合、そして完全独立の3つ選択肢が協議されたが、1825年8月6日にアルトペルーは完全独立を選び、アルトペルー共和国の独立を宣言した。


8月26日にシモン・ボリバルにちなんでボリビア共和国と改名し、11月19日にボリバル憲法を公布すると同時に首都チュキサカをアントニオ・ホセ・デ・スクレにちなんでスクレと改名した。シモン・ボリバルが初代大統領に就いていたが、12月9日にアントニオ・ホセ・デ・スクレが終身大統領に就任した。


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