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1807.7.7 NBW ロシア帝国🇷🇺#021 仏と協調外交(ティルジットの和約)🇫🇷

  • 執筆者の写真: 四々縦七
    四々縦七
  • 2022年4月4日
  • 読了時間: 2分

1807年7月7日にロシア帝国(ロマノフ家)とフランスが講和して、フランスとロシアが協調することが約束された(ティルジットの和約)。ロシアがイギリスへ宣戦布告すること、ロシアがスウェーデンに圧力をかけて大陸封鎖令に参加させること、その見返りにフランスはロシアがフィンランドを獲得することを容認すること、が主な内容だった。


ロシア帝国(ロマノフ家)は、対仏大同盟を裏切り、フランス第一帝政(1804年5月18日帝政宣言〜1814年4月4日NB退位、1815年3月20日〜6月22日NB百日天下)に乗り換える選択をしたのだ。


ロシアの場合はヨーロッパの端に位置するので、ヨーロッパの強国と協力関係を築いて西側からの攻撃にある程度備えられれば、北・南・東に領土を拡大していくことで国民国家のサバイバル・ゲーム、すなわち現代世界史を生き抜いていけることに気付き、国民国家フランスに対しても早速実践したのだ。


ティルジットの和約(1807年7月7日)の後、ロシアは、スウェーデンからはフィンランド全土とオーランド諸島を獲得(1809年9月17日フレデリクスハムンの和約)し、オスマン帝国からはドニエストル川からプルート川までの地域(ベッサラビア)を獲得(1812年5月28日ブカレスト条約)し、ペルシア(ガージャール朝(1779年〜1925年12月15日))からは南コーカサス地方(現在のジョージア・アゼルバイジャン・アルメニア3国の総称)の一部を獲得(1813年10月24日ゴレスターン条約)した。う〜む、しっかり成果を挙げている…


しかも、である。ロシア軍とイギリス軍の直接の大規模な軍事衝突は起こらないまま、1812年4月5日には交戦中のイギリス・ロシア・スウェーデンが秘密裏に協調してフランスに対抗することを合意(サンクトペテルブルク条約)していたのである。この間、わずか5年弱である。


世界大戦のたびに同盟国を裏切り、乗り換えるロシア外交は、ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)から既に始まっていたことになる。


実際、ポスト・ナポレオン戦争の時代(ウィーン体制)を経て、英露グレートゲーム(1828年2月21日〜1907年8月31日)が戦われたわけだ。その史実こそが、イギリスとロシアはナポレオン戦争(1799年11月9日〜1815年11月20日)を生き残っただけでなく、国民国家のサバイバル・ゲームにおいてトップランナーとして躍り出る契機としたことを証明している。



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