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1775.4.18 例外②英仏の緩衝地帯 タイ王国(シャム王国)🇹🇭#011

  • 執筆者の写真: 四々縦七
    四々縦七
  • 2022年1月4日
  • 読了時間: 3分

ポスト・ナポレオン戦争の時代以降は、イギリス・ロシア・フランス・ドイツ・イタリア・アメリカなどの複数の国民国家の直接・間接の影響を受けて、世界各地で植民地化と国民国家化が進むことになる。そんな世界で、例外的な存在だったのが、日本🇯🇵、エチオピア🇪🇹、タイ(シャム)🇹🇭、リベリア🇱🇷の4カ国であった。


タイ王国(シャム王国、チャクリー朝(1782年4月6日〜現在)は、白人の植民地支配を受けることなく古代からつづく、数少ない非白人国家のひとつである。タイは、イギリス植民地とフランス植民地の間の緩衝地帯として独立を保つことに成功したのである。


日本が『列強』入りした20世紀前半において、独立を保てていた非白人国家は、日本以外には3カ国しかない。タイ王国以外には、エチオピア(エチオピア帝国1270年〜1974年9月12日)とリベリア共和国(1847年7月26日〜)があるだけだ。


タイ王国は、1238年に成立したスコータイ朝にはじまると言われている。800年弱の長い歴史を誇る計算になる。スコータイ朝(1238年〜)、アユタヤ朝(1351年〜1767年)、トンブリー朝(1767年〜1782年4月6日)と王朝が代わり、トンブリー朝のタークシン王の部下のチャオプラヤー・マハーカサット・スックがタークシン王を処刑し、バンコクに遷都して、1782年4月6日に王位に就いた(ラーマ1世)ことで、チャクリー朝(1782年4月6日〜現在)が興った。

【シャムとメーコーン上流域に関する英仏宣言】

19世紀末の当時、タイ王国の西は、ビルマ(現在のミャンマー)がイギリスに敗れて(イギリス・ビルマ戦争 (英緬戦争))、イギリス領インド帝国(1858年8月2日〜1947年8月15日)の統治下に入っていた。東は、フランス第三共和政(1870年9月4日〜1940年6月22日)がベトナムを植民地化していた(後に、フランス領インドシナ(1887年10月17日〜1953年11月9日)に含まれる)。


タイ王国チャクリー王朝(1782年4月6日〜現在)の当時のラーマ5世(在位1868年10月1日〜1910年10月23日)は、イギリスにマレー半島の一部を割譲し、フランス第三共和政(1870年9月4日〜1940年6月22日)にはラオスとカンボジアを割譲(これにより、フランス領インドシナ(1887年10月17日〜1953年11月9日)が成立)することで、独立を保った。


こういった英仏の侵略とタイ王国の外交対応の結果、イギリス領インド帝国(1858年8月2日〜1947年8月15日)とフランス領インドシナ(1887年10月17日〜1953年11月9日)は、タイ王国の北部で国境を接することになったわけである。


植民地の国境を接することになったイギリスとフランス第三共和政(1870年9月4日〜1940年6月22日)は、1896年1月15日に、シャムとメーコーン上流域に関する英仏宣言(Declaration between Great Britain and France with regard to the Kingdom of Siam and other matters)を発表し、タイ王国を緩衝地帯とすることに合意・発表したのである。


タイ王国は、外交(もちろん領土を割譲することを外交と表現するべきかどうかは議論の余地があるだろうけれど…)により、『列強』間の緩衝地帯として独立を保つことに成功したのである。

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