4つの古代帝国の崩壊
- 四々縦七
- 2021年12月13日
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現代世界史において数多くの戦争が起こり、『国民国家』を含む7つの『列強』が国際社会での存在感を高めていく過程の中で、衰退していった古代の帝国もあった。
今回は、なかでも国際社会に多大な影響を与えたオーストリア帝国(ハプスブルク家、1278年〜1918年11月12日)、オスマン帝国(1299年〜)、ムガル帝国(1526年〜)、大清帝国(1616年〜)という4つの帝国の滅亡等について、世界大戦との関係を中心にごく簡単に説明する。
オーストリア帝国(ハプスブルク家)については、神聖ローマ帝国およびドイツ連邦の盟主でもあり、一時はオーストリア=ハンガリー二重帝国という統治形態を採用したりしていたのだが、これらの終焉も各当時の国際社会に多大な影響を与えたので、これらを含めて滅亡等した順に時系列に並べ直すと…
NBW/1806.8.6:神聖ローマ帝国が解散【オーストリア帝国の歴史①】
GG/1858.3.29:ムガル帝国が滅亡
GG/1866.8.23:ドイツ連邦が解体【オーストリア帝国の歴史②】
GG/1912.2.12:大清帝国が滅亡
WWⅠ/1918.10.31:オーストリア=ハンガリー二重帝国が崩壊【オーストリア帝国の歴史③】
WWⅠ/1918.11.12:オーストリア帝国が滅亡【オーストリア帝国の歴史④】
WWⅠ/1922.11.1:オスマン帝国が滅亡
ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)前半の、1803年5月16日にイギリスはフランスへ宣戦布告(アミアンの和約(1802年3月25日イギリスとフランスが講和)を破棄)した。フランス第一帝政(1804年5月18日〜1814年4月4日、1815年3月20日〜6月22日)がイギリス本土への侵攻を計画するのに対抗してイギリス主導で第三次対仏大同盟が結成された。
【オーストリア帝国の歴史①】
神聖ローマ帝国の解散
オーストリア大公国(1453年〜)も第三次対仏大同盟に参加していたが、ウルムの戦い(1805年9月25日〜10月20日)とアウステルリッツの戦い(同年12月2日)でフランス第一帝政に敗北すると、同年12月26日にオーストリア大公国は単独でフランス第一帝政と講和してしまった(プレスブルクの和約)。
1806年7月12日に神聖ローマ帝国内のすべてのドイツ諸侯が離脱してフランス第一帝政と同盟した(ライン同盟、ナポレオン・ボナパルトが盟主、事実上の保護国化)ため、同年8月6日にフランツ2世は神聖ローマ帝国(962年〜)の解散を表明した。
神聖ローマ帝国の解散によってオーストリア(ハプスブルク家)の支配領域はドイツ諸侯の領土を除く範囲に縮小されたわけだが、1804年8月11日にフランツ2世がオーストリア皇帝を称していた(狭義のオーストリア帝国の成立)ので、1806年8月6日に名実ともにオーストリア帝国が成立したと言える。
要約すると、ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)中に、オーストリア帝国は、『国民国家』フランス帝国に神聖ローマ帝国(962年〜)の実体(すべてのドイツ諸侯の領土の支配権)を奪われ、1806年8月6日に神聖ローマ帝国を解散することになった、ということである。
英露グレートゲーム(GreatGame、1828年2月21日〜1907年8月31日)とは、一義的にはイギリスとロシアとがユーラシア大陸での鋭い対立を経て協調するに至った時代であり、ヨーロッパにおいてはプロシア王国(ホーエンツォレルン家)がオーストリア(ハプスブルク家)を押し退けてドイツを統一して『国民国家』となり、強大な『列強』となった時代であった。
【ムガル帝国の滅亡】
イギリス東インド会社は、1613年スーラトに商館を設立し、マドラス(1640年にセント・ジョージ要塞完成)、ボンベイ(1661年にポルトガルのカタリナ王女の結婚の持参金として委譲)、カルカッタ(1696年にウィリアム要塞完成)と拠点を増やして行った。1757年6月23日に、イギリス東インド会社の軍がベンガル太守とフランス東インド会社の連合軍に勝利(プラッシーの戦い、Cf.七年戦争)して以降、イギリス東インド会社による(フランスを排除した)ムガル帝国の植民地化が本格化した。
ムガル帝国の植民地化が進むなか、国(イギリス)が会社(イギリス東インド会社)に領土(植民地)の統治を任せる統治形態が17〜19世紀にわたって続いた。イギリス東インド会社の統治に対する不満が募り、1857年5月10日に、第一次インド独立戦争(セポイの乱、〜1859年)が起きた。
なんとか反乱を鎮圧したイギリスは、反乱の責任をムガル帝国皇帝とイギリス東インド会社の双方に課した。まず、1858年3月29日にムガル帝国皇帝バハードゥル・シャー2世に対して、イギリス国王に対する反逆罪を宣告・廃位し、ビルマに流刑とした。これにより、ムガル帝国(1526年成立〜1858年3月29日)は滅亡した。
そして、イギリスは1858年8月2日にイギリス東インド会社のインド管轄権を剥奪(1858年インド統治法を可決)して、11月1日から直接統治を始めた。イギリス領インド帝国(1858年8月2日〜1947年8月15日)の成立であり、1977年1月1日にはヴィクトリア女王がインド皇帝(女帝)に即位した。
要約すると、英露グレートゲーム(GreatGame、1828年2月21日〜1907年8月31日)中に、インド植民地での独立運動が起こるが失敗したことを契機として、ムガル帝国(1526年成立〜1858年3月29日)が滅亡し、イギリス領インド帝国(1858年8月2日〜1947年8月15日)が成立して直接統治がはじまった、ということである。
英露グレートゲーム以降のイギリス外交戦略の一つの要は、イギリス領インド帝国の安全保障およびイギリス本国との交通確保(含む、スエズ運河(1869年11月17日開通)の支配権確保)であったこ。世界中に広がる植民地の中でもインド植民地は特に重要だったのだ。
【オーストリア帝国の歴史②】
ドイツ連邦の解体
「フランス革命は無かったことにしよう」というウィーン体制において、オーストリア帝国(ハプスブルク家)を盟主とするドイツ連邦(1815年6月8日〜1866年8月23日)が復活していた。
しかし、オーストリア帝国がイタリア王国(サルデーニャ王国、サヴォイア家)と同盟したプロシア王国(ホーエンツォレルン家)に敗北(普墺戦争(1866年6月15日〜1866年8月23日)することでドイツ連邦が解体されて、プロシア王国(ホーエンツォレルン家)が主導する北ドイツ連邦(1867年4月16日〜1871年1月18日)が結成された。
プロシア王国(ホーエンツォレルン家)は、南ドイツのバーデン大公国・ヴュルテンベルク王国・バイエルン王国と同盟を結んでフランス第二帝政に勝利(普仏戦争(1870年7月19日〜1871年5月10日))して、同戦争中の1871年1月18日にヴィルヘルム1世がヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝を戴冠することでドイツ第二帝国を成立させた。
要約すると、英露グレートゲーム(GreatGame、1828年2月21日〜1907年8月31日)後半に、オーストリア帝国は、『国民国家』化を進めるプロシア王国(ホーエンツォレルン家)に敗北し、1866年8月23日にドイツ連邦を解体されてしまった、ということである。
オーストリア帝国(ハプスブルク家)は、プロシア王国(ホーエンツォレルン家)との競争に敗れ、統一ドイツから排除されてしまったのである。
ドイツ連邦(1815年6月8日〜1866年8月23日)が解体されてしまったオーストリア帝国(ハプスブルク家、1804年8月11日成立)は、領土をオーストリア帝冠領(ツィスライタニエン)とハンガリー王冠領(トランスライタニエン)に二分し、外交などを除いて別々の政府が統治しつつオーストリア皇帝がハンガリー国王を兼ねる同君連合とする(和協、アウグスライヒ、キエッジェズィーシュ)ことで、マジャール人(ハンガリー人)と協力して帝国内の諸民族の独立運動を抑止する必要があった。こうして、1867年5月29日にオーストリア=ハンガリー二重帝国(〜1918年10月31日)が成立した。
ここで、ユーラシア大陸東端の”チャイナ”地域に目を転じよう。大清帝国(1616年後金の成立、1644年チャイナ地域の支配開始、1912年2月12日滅亡)は、1759年にジューンガルの支配下にあったタリム盆地を支配下に入れて領土を最大にしていた。現代世界史の始まり(敢えて特定の日とするなら『1775年4月19日』)を最大版図で迎えたわけである。
1581年にシベリア進出を始めたロシアとは、1689年にネルチンスク条約(ロシアのシベリア進出に対応して満洲北辺の国境確定)、1727年にキャフタ条約(清の北モンゴル進出に対応して北モンゴルの国境確定)を結んでいたが、英仏連合との戦い(アロー戦争(第二次アヘン戦争、1856年6月28日〜1860年10月24日/25日))につけ込まれて、1858年5月28日にアムール川左岸を割譲(アイグン条約)し、1860年11月14日に沿海州(ウスリー川以東の外満州)を割譲(北京条約)していた。
英露グレートゲーム(GreatGame、1828年2月21日〜1907年8月31日)末期にロシアの極東進出が更に加速する。
【大清帝国の滅亡】
1900年に大清帝国内の山東半島で暴動が起こった(義和団の乱)。この暴動が北京にも波及し、国際公使館を包囲(1900年6月20日〜8月14日)する事態となったため、日本を主体とする8カ国(日本・ロシア・イギリス・アメリカ・フランス第三共和政・ドイツ第二帝国・オーストリア=ハンガリー二重帝国・イタリア王国)連合軍が組織されて北京に入城して国際公使館の包囲を解いたうえ、翌8月15日に北京を陥落させた(この側面から義和団の乱を北清事変とも呼ぶ)。
大清帝国の政権中枢は西太后だったが、正規軍を義和団と組ませてしまった。そのため、上記敗戦後に多額の賠償金支払い義務を負った(北京議定書、1901年9月7日)。賠償金支払いのための藩部解放は、満州人の共同統治者であったモンゴル人の離反にもつながった。
さらに北清事変に乗じたロシアが、満洲を占領してしまった。三国干渉の結果として遼東半島を獲得していたロシアは大連・旅順に拠点を築いていただけでなく、李氏朝鮮を属国化していた(露館播遷)ため、”チャイナ”地域における存在感を飛躍的に高めることになった。これに対抗するために日英同盟が成立し、日露戦争(1904年2月6日〜1905年9月5日)で日本が勝利して満洲からロシア軍を撤退させることになるが、今度は日本の満洲進出につながった。
大清帝国は、日露戦争(1904年2月6日〜1905年9月5日)後に『列強』日本に留学生を送って近代化を図ったが、これら漢民族の留学生たちが、革命(辛亥革命(1911年10月10日〜1912年2月12日))を起こして中華民国(中国国民党、1912年1月1日〜)を成立させることとなってしまった。中華民国の実態は「南朝」に過ぎず、大清帝国の軍閥である袁世凱が実権を握ることとなったが、その交換条件として孫文に提案された通り大清帝国の終焉の道筋をつけた(1912年2月12日に宣統帝が退位)。
大清帝国(1616年後金の成立、1644年チャイナ地域の支配開始、1912年2月12日滅亡)は国内で起こった暴動への対処を誤って、『列強』への巨額賠償義務を発生させ、末期はほぼ当事者能力を失った状態で滅亡することとなった。袁世凱に代表される軍閥が勢力を残したまま、「南朝」国民党軍がこれと対峙し、”チャイナ”地域に権益を有する『列強』英仏独・北部に権益を有する『列強』日露、なんとか権益を確保しようとする『列強』アメリカに囲まれるという混乱の時代を招来する結果となった。
最後に、現在までつづくバルカン半島と中東の混乱の端緒となったオーストリア=ハンガリー二重帝国(1867年5月29日〜1918年10月31日)の崩壊とオスマン帝国(1299年成立〜1922年11月1日)の滅亡を見て、今回を終えよう。
第一次世界大戦(WWⅠ、1914年7月28日〜1918年11月11日)の中央同盟国は、ドイツ第二帝国(プロシア王国、ホーエンツォレルン家)、オーストリア=ハンガリー二重帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国の4カ国で構成されていた。
1918年9月29日にブルガリア王国が単独で連合国と停戦(サロニカ休戦協定)するころには中央同盟国の敗色が濃厚であり、ドイツ第二帝国はアメリカを通じた講和交渉を開始し、オーストリア=ハンガリー二重帝国とオスマン帝国は、それぞれ10月14日、15日に休戦を求めていた。
【オーストリア帝国の歴史③】
オーストリア=ハンガリー二重帝国の崩壊
そんななか、1918年10月28日にチェコスロバキアが独立を宣言すると、ハンガリーでも暴動が発生(アスター革命、〜31日)し、翌29日にスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国が独立した。31日にハンガリーが独立を宣言するに至って、オーストリア=ハンガリー二重帝国(1867年5月29日〜1918年10月31日)は崩壊した。革命の成功を受けてハンガリーでは、11月16日にハンガリー第一人民共和国(〜1919年3月21日)が成立した。
こうして第一次世界大戦(WWⅠ、1914年7月28日〜1918年11月11日)末期に、チェコ人・スロバキア人・スロベニア人・クロアチア人・セルビア人・ハンガリー人に独立を許してしまい、オーストリア=ハンガリー二重帝国(1867年5月29日〜1918年10月31日)は崩壊してしまった。
【オーストリア帝国の歴史④】
オーストリア帝国の滅亡
1918年11月11日にドイツ第二帝国と連合国の休戦協定が締結されて第一次世界大戦(WWⅠ、1914年7月28日〜1918年11月11日)が終わった。
翌12日にオーストリア皇帝カール1世が退位して、オーストリア帝国(ハプスブルク家、1804年8月11日〜1918年11月12日)は滅亡した。同日、ドイツ=オーストリア共和国の成立が宣言され、オーストリアに唯一残ったドイツ人は同じく敗戦によりヴァイマル共和政が発足したドイツとの合邦(アンシュルス)をめざすことになる。
こうして、オーストリア=ハンガリー二重帝国(1867年5月29日〜1918年10月31日)の崩壊は、オーストリア帝国の滅亡すなわちハプスブルク家の支配の終焉までもを招くこととなってしまった。
ハプスブルク家(オーストリア)から見れば、英露グレートゲーム(GreatGame、1828年2月21日〜1907年8月31日)中にホーエンツォレルン家(プロシア)に敗北(普墺戦争(1866年6月15日〜1866年8月23日)て、統一ドイツ(1871年1月18日ドイツ第二帝国成立)から排除され、非ドイツ人となんとか妥協して帝国の分裂を防ごうとした(オーストリア=ハンガリー二重帝国(1867年5月29日〜1918年10月31日))けれど、第一次世界大戦(WWⅠ、1914年7月28日〜1918年11月11日)末期の劣勢で非ドイツ人みんなからソッポを向かれて崩壊し、結局敗北してホーエンツォレルン家(プロシア)もろとも滅亡するハメになった、とも言える。
ちなみに、連合国は、ヴェルサイユ条約(ドイツ国と講和、1919年6月28日)、サン=ジェルマン条約(オーストリア第一共和国と講和、同年9月10日)、ヌイイ条約(ブルガリア王国と講和、同年11月27日)、トリアノン条約(ハンガリー王国と講和、1920年6月4日)、セーブル条約(オスマン帝国と講和、同年8月10日)で、中央同盟国それぞれと講和した。
【オスマン帝国の滅亡】
1918年10月30日にオスマン帝国は連合国に降伏(ムドロス休戦協定)した。しかし降伏時には、アナトリア半島全域と東トラキアなどは連合国に占領されずにオスマン帝国の勢力下にあった。しかし、ムドロス休戦協定締結以降に、イギリス、フランス、イタリア、ギリシャが進駐・分割占領したため、オスマン帝国の勢力圏はアナトリア半島北部に限定されてしまっていた。
休戦に乗じて領土拡大を目論むギリシャにより希土戦争(1919年5月15日〜1922年10月14日)が勃発するなか、1919年5月19日にムスタファ・ケマルがアナトリア・ルメリア権利擁護委員会を起こして連合国による分割に対する抵抗運動がはじまった。1920年4月23日にはトルコ大国民議会がムスタファ・ケマルを議長に選出してアンカラ政府が成立した。
こういった状況下において1920年8月10日に、オスマン帝国メフメト6世がセーブル条約に署名した。その内容は東トラキアをギリシャに割譲し、アナトリア半島内のイギリス、フランス、イタリア、ギリシャによる分割占領を追認し、更に東部地域をアルメニアに割譲するなどの内容だった。メフメト6世は、王朝の保全を図って連合国に迎合したのである。
アンカラ政府が希土戦争(1919年5月15日〜1922年10月14日)に勝利してギリシャが敗走すると、連合国はセーブル条約を放棄し、1923年7月24日にアナトリア半島全域と東トラキアを領土とするトルコ共和国を主権国家として承認した(ローザンヌ条約)。
トルコ大国民会議は、1922年11月1日にスルタン制とカリフ制を分離し、スルタン制のみを廃止することを決議した。これにより、オスマン帝国(1299年成立〜1922年11月1日)は滅亡した。1923年10月29日にトルコ大国民会議は共和政を宣言し、ムスタファ・ケマル・アタテュルクが大統領に就任した(トルコ共和国の成立)。1924年3月3日にはカリフ制も廃止した。

年表:オーストリア帝国(ハプスブルク家)略史
1156年 オーストリア公国成立
1278年 ハプスブルク家による支配始まる(マルヒフェルトの戦い)
1453年 オーストリア大公国成立
1804年8月11日 オーストリア帝国成立
1806年7月12日 ナポレオン・ボナパルトを盟主とするライン同盟成立
1806年8月6日 神聖ローマ帝国(962年〜)解散
1814年5月30日 第一次パリ条約締結
1815年6月8日 ドイツ連邦(〜1866年8月23日)成立。オーストリア帝国が盟主となる
1815年6月9日 ウィーン議定書締結
1815年11月20日 第二次パリ条約締結(ナポレオン戦争終結)
1866年6月15日 普墺戦争(〜1866年8月23日)に敗北
1866年8月23日 ドイツ連邦(1815年6月8日〜)解体
1867年3月30日 アウグスライヒ
1867年5月29日 オーストリア=ハンガリー二重帝国成立
1918年10月28日 チェコスロバキアが独立宣言
1918年10月28日 ハンガリーで秋薔薇革命勃発(〜31日)
1918年10月29日 スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国が独立
1918年10月31日 ハンガリーが独立宣言、オーストリア=ハンガリー二重帝国崩壊
1918年11月11日 第一次世界大戦停戦(ドイツ第二帝国と連合国の休戦協定締結)
1918年11月12日 オーストリア皇帝退位
1918年11月12日 ドイツ=オーストリア共和国の成立宣言
1918年11月16日 ハンガリー第一人民共和国(〜1919年3月21日)成立
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