フランス革命戦争[FRW]①
- 四々縦七
- 2022年2月1日
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フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)とナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)について、フランスの視点からまとめる。
FRW①開戦〜カンポ・フォルミオ条約
1792年4月20日にフランスが、フランス革命(1789年7月14日〜1795年8月22日)に干渉したオーストリアに宣戦布告して、フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)が勃発した。オーストリア軍はオーストリア領ネーデルラントから、プロシア軍はラインラントから、フランスに侵攻した。
フランスは1793年2月1日にイギリスとオランダに、3月7日にスペインに宣戦布告しており、1793年には第一次対仏大同盟が結成された。【第一次対仏大同盟:オーストリア・プロシア(1795年4月5日離脱)・イギリス・オランダ(1795年1月19日離脱)・スペイン(1795年7月22日離脱)・サルデーニャ王国・ナポリ王国;ポルトガル】
1793年末からフランスが反攻に転じ、フランス軍は領内からオーストリア軍・プロシア軍を撤退させたうえ、オーストリア領ネーデルラントとラインラントを占領した。1796年8月19日にはスペインと対英同盟を結ぶことに成功した。
【衛星国家バタヴィア共和国の成立】
1795年1月19日に衛星国家バタヴィア共和国が成立して、ネーデルラント連邦共和国が滅亡した。5月16日にバタヴィア共和国と相互防衛同盟を結成した(ハーグ条約)。
【バーゼル条約】
ラインラントを占領されたプロシアは、1795年4月5日にフランスと講和した(バーゼル条約)。フランスはプロシアにライン川西岸(ラインラント)の領有を認めさせ、ライン川以東の占領地域は返還した。1794年から講和交渉は始まっていて、バーゼル条約(1795年4月5日)にはライン川西岸のフランス支配を認める代わりにライン川東岸のプロシア支配を保障するという秘密条項が含まれていた。
バーゼル条約(1795年4月5日)を締結したプロシアは10年超の中立政策を採り、ライン同盟の成立(1806年7月12日)に危機感を抱いて対仏大同盟に復帰するのは、1806年10月9日(フランスに宣戦布告)のことになる。
【ピレネー戦争, 第二次バーゼル条約】
1793年3月7日にフランスはスペインに宣戦布告した。1795年7月22日にスペインはフランスと講和し、ギプスコア返還の代わりにスペイン領サントドミンゴを割譲した(第二次バーゼル条約)。1796年8月19日にスペインとフランスは対英同盟を結んだ。
【第一次イタリア遠征, パリ条約, カンポ・フォルミオ条約】
フランス軍は1794年には既にジェノヴァ共和国のリグリア海岸沿岸部を占領していたが、1796年3月27日にナポレオン・ボナパルトがイタリア派遣軍司令官に就任して、第一次イタリア遠征(1796年3月27日〜1797年10月18日カンポ・フォルミオ条約)がはじまった。
ナポレオン・ボナパルトは、1796年4月12日にサルデーニャ・オーストリア連合軍を破り(モンテノッテの戦い)、5月15日にサルデーニャ王国と講和してニースとサヴォワを獲得したうえフランス軍のサルデーニャ領通過を認めさせた(パリ条約)。
ナポレオン・ボナパルトは続けて、1796年5月10日にオーストリア軍を破り(ロディの戦い)、15日にミラノを占領すると、オーストリア軍を追撃してヴェネツィア共和国に侵攻してアディジェ川までの地域を占領した。1797年4月18日にオーストリアと休戦し、秘密裏にヴェネツィア共和国の領土分割に合意した(レオーベンの和約)。6月29日には衛星国家チザルピーナ共和国を建国して旧ミラノ公国領も統合した。
1797年5月にはナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍はジェノヴァを占領し、6月14日にリグリア共和国を建国した。
1797年10月18日にオーストリアはフランスと講和し、オーストリア領ネーデルラントを割譲した。北イタリアにおいては、チザルピーナ共和国の独立を認めたうえで、ロンバルディアを割譲し、かつヴェネツィア共和国の領地を分割した。またリグリア共和国の独立も認めた(カンポ・フォルミオ条約)。

1795.1.19 衛星国家バタヴィア共和国の成立【ネーデルラント連邦共和国の滅亡】
フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)がはじまった翌年1793年2月1日にフランスはオランダとイギリスに宣戦布告した。
1793年末からフランスが反攻に転じ、フランス軍は領内からオーストリア軍・プロシア軍を撤退させたうえ、オーストリア領ネーデルラントとラインラントを占領した。1794年にはフランス軍はオランダ領内にも侵攻し、オランダ軍とイギリス遠征軍への攻撃を開始した。
1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立して、ネーデルラント連邦共和国(1579年1月23日ユトレヒト同盟〜1648年10月24日ウェストファリア条約〜1795年1月19日)が滅亡した。1795年5月16日にバタヴィア共和国とフランスは相互防衛同盟を結成し、バタヴィアはフランスに低利子の大借款を提供した(ハーグ条約)。
1806年6月5日にフランスの衛星国家ホラント王国(1806年6月5日〜1810年7月9日)に移行し、1810年7月9日にフランス第一帝政(1804年5月18日帝政宣言〜1814年4月4日NB退位、1815年3月20日〜6月22日NB百日天下)に併合された。
なお、ネーデルラント連邦共和国と共に第一次対仏大同盟に参加していたイギリスは、バタヴィア共和国が成立するとすぐに、ケープ植民地などオランダ東インド会社の海外植民地への侵攻を開始した。
1795.4.5 バーゼル条約【普仏講和】
1792年4月20日にフランスが、フランス革命(1789年7月14日〜1795年8月22日)に干渉したオーストリアに宣戦布告して、フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)が勃発した。オーストリア軍はオーストリア領ネーデルラントから、プロシア軍はラインラントから、フランスに侵攻した。
1793年末からフランスが反攻に転じ、フランス軍は領内からオーストリア軍・プロシア軍を撤退させたうえ、オーストリア領ネーデルラントとラインラントを占領した。
1795年4月5日にプロシアはフランスと講和した(バーゼル条約)。フランスはプロシアにライン川西岸(ラインラント)の領有を認めさせ、ライン川以東の占領地域は返還した。1794年から講和交渉は始まっていて、バーゼル条約(1795年4月5日)にはライン川西岸のフランス支配を認める代わりにライン川東岸のプロシア支配を保障するという秘密条項が含まれていた。
バーゼル条約(1795年4月5日)を締結したプロシアは10年超の中立政策を採ることになり、ライン同盟の成立(1806年7月12日)に危機感を抱いて対仏大同盟に復帰するのは1806年10月9日(フランスに宣戦布告)のことになる。
1793.3.7-1795.7.22 FRW ピレネー戦争, 第二次バーゼル条約【スペインが仏と同盟】
1793年3月7日にフランスはスペインに宣戦布告した(ピレネー戦争(War of the Pyrenees)1793年3月7日〜1795年7月22日第二次バーゼル条約)。ピレネー山脈東部の戦線は膠着したが、ピレネー山脈西部の戦線はフランス優勢となりフランス軍はギプスコア(現在のバスク州ギプスコア県)を占領した。
1795年7月22日にスペインはフランスと講和し、ギプスコア返還の代わりにスペイン領サントドミンゴを割譲した(第二次バーゼル条約)。1796年8月19日にスペインとフランスは対英同盟を結んだ(第二次サン・イルデフォンソ条約(Second Treaty of San Ildefonso)。
1796.3.27-1797.10.18 第一次イタリア遠征, パリ条約【伊仏講和】, カンポ・フォルミオ条約【墺仏講和】
フランス軍は1794年には既にジェノヴァ共和国(1005年〜1797年6月14日)のリグリア海岸沿岸部を占領していたが、1796年3月27日にナポレオン・ボナパルトがイタリア派遣軍司令官に就任して、第一次イタリア遠征(1796年3月27日〜1797年10月18日カンポ・フォルミオ条約)がはじまった。
ナポレオン・ボナパルトは、1796年4月12日にサヴォーナ近郊でサルデーニャ・オーストリア連合軍を破って両軍を分断してサルデーニャ軍を孤立させることに成功した(モンテノッテの戦い)。サルデーニャ王国は1796年5月15日フランスと講和して、ニースとサヴォワを割譲し、フランス軍の領地通過を認めた(パリ条約)。
ナポレオン・ボナパルトは、1796年5月10日にオーストリア軍を破り(ロディの戦い)、15日にミラノを占領してトランスパダーネ共和国(1796年5月21日〜1797年6月29日)の建国を宣言すると、オーストリア軍を追撃してヴェネツィア共和国に侵攻してアディジェ川までのヴェネツィア共和国領を占領し、1797年4月18日にオーストリアと休戦し、秘密裏にヴェネツィア共和国の領土分割に合意した(レオーベンの和約)。また、1796年11月15日にミラノ公国(1395年〜1796年11月15日)滅亡)をトランスパダーネ共和国に併合していたが、1797年6月29日にチザルピーナ共和国(1797年6月29日〜1802年1月26日)を建国して統合した。
1797年5月にはナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍はジェノヴァを占領し、6月14日にリグリア共和国(1797年6月14日〜1805年6月4日)を建国(ジェノヴァ共和国(1005年〜1797年6月14日)滅亡)した。
1797年10月18日にオーストリアはフランスと講和し、オーストリア領ネーデルラントを割譲した。北イタリアにおいては、チザルピーナ共和国の独立を認めたうえで、ロンバルディアを割譲し、かつヴェネツィア共和国(697年〜1797年10月18日)の領地を分割した。またリグリア共和国の独立も認めた(カンポ・フォルミオ条約)。なお、分割したヴェネツィア共和国の領地のうちヴェネツィア・イストリア・ダルマチアはオーストリアに割譲された。
1797.6.14 衛星国家リグリア共和国の成立【ジェノヴァ共和国の滅亡】
フランス軍は1794年には既にジェノヴァ共和国(1005年〜1797年6月14日)のリグリア海岸沿岸部を占領していたが、1796年3月27日にナポレオン・ボナパルトがイタリア派遣軍司令官に就任して、第一次イタリア遠征(1796年3月27日〜1797年10月18日カンポ・フォルミオ条約)がはじまった。
1797年5月にはナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍はジェノヴァを占領し、6月14日にリグリア共和国(1797年6月14日〜1805年6月4日)を建国した。これにより、ジェノヴァ共和国(1005年〜1797年6月14日)が滅亡した。
1797年10月18日にオーストリアはフランスと講和し、リグリア共和国の成立・独立を認めた(カンポ・フォルミオ条約)。
1797.10.18 ヴェネツィア共和国の分割・滅亡
1797年10月18日にオーストリアとフランスが締結したカンポ・フォルミオ条約により、ヴェネツィア共和国(697年〜1797年10月18日)は滅亡した。
ヴェネツィア共和国の領地のうち、ヴェネツィア・イストリア・ダルマチアはオーストリアに割譲され、残りの北イタリア領地とイオニア諸島はフランスに割譲された。北イタリア領地は衛星国家チザルピーナ共和国の領地に組み込まれ、イオニア諸島はフランス領となった。

参照文献:北原淳監修「一冊でわかるイタリア史」河出書房新社
参照文献:福利憲彦監修「一冊でわかるフランス史」河出書房新社
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