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フランス革命戦争[FRW]②

  • 執筆者の写真: 四々縦七
    四々縦七
  • 2022年2月2日
  • 読了時間: 7分

更新日:2022年9月23日

フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)とナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)について、フランスの視点からまとめる。


FRW②ラシュタット会議開催中のフランスの攻勢

カンポ・フォルミオ条約(1797年10月18日)で講和したフランスとオーストリアだったが、1798年1月19日にライン川西岸(ラインラント)領有をめぐる講和会議を開催した(ラシュタット会議(1798年1月19日〜1799年3月21日))。フランスの軍事作戦は教皇領・スイス・ピエモンテなどで継続していた。


対仏大同盟を主導するイギリスのインド植民地との連絡を絶とうと考えたナポレオン・ボナパルトは、1798年7月3日に、エジプトに上陸した(エジプト遠征(1798年7月3日〜1801年))。


【衛星国家ローマ共和国の成立, フランスのヴァチカン占領】

1798年2月に、ナポレオン・ボナパルトは教皇領に侵攻した。2月15日にローマ市民が教皇権力を否定してローマ共和国(1798年2月15日〜1799年9月30日)の成立を宣言すると、これを承認してヴァチカンを占領し、ローマ教皇庁を制圧した。


【衛星国家ヘルヴェティア共和国の建国】

1798年3月5日にフランス軍はスイスにも侵攻した。スイス連邦の盟約者団は崩壊し、4月12日に衛星国家ヘルヴェティア共和国の建国が宣言された。


【衛星国家ピエモンテ共和国の成立, トリノ占領】

サルデーニャ王国と衛星国家リグリア共和国の間に勃発した戦争に介入して、1798年7月にフランス軍はピエモンテに侵攻した。9月10日にピエモンテ共和国の独立が宣言され、12月6日にトリノは占領された。


【エジプト遠征】

ナポレオン・ボナパルトが率いるフランス軍は、1798年7月3日にエジプトに上陸すると、アレクサンドリア、カイロを陥落させた。しかし、8月1日にイギリス艦隊によってアブキール湾に停泊していたフランス艦隊が発見・攻撃され、大敗した。地中海の制海権を失ったフランス軍は補給を断たれてしまった。


ナポレオン・ボナパルトは、シリア攻略を狙ったがアッコ包囲戦(1799年3月20日〜5月21日)に敗北して失敗し、アブキールの戦い(1799年7月25日)でオスマン軍に大勝したものの、8月22日に帰国するためにエジプトを脱出した。

1798.1.19-1799.3.21 ラシュタット会議【墺仏交渉】

1798年1月19日から1799年3月21日まで講和会議が開かれた。ライン川西岸(ラインラント)の領有権をめぐって、スウェーデンの調停により、オーストリアとフランスの利害調整が図られたが、失敗に終わった。ライン川西岸(ラインラント)については、プロシアがフランスの領有を認めていた(1795年4月5日バーゼル条約)。


ラシュタット会議(1798年1月19日〜1799年3月21日)の開催中に、フランスはローマ共和国(1798年2月15日〜1799年9月30日)を承認してローマ教皇庁を制圧し、エジプト遠征(1798年7月3日〜1801年)を開始し、サルデーニャ王国からピエモンテ共和国(1798年9月10日〜1799年6月20日)を独立させた。


一方のオーストリアは、1798年5月にナポリ王国と同盟して、11月28日にオーストリア・ナポリ王国連合軍がローマ共和国に侵攻してローマを占領し、12月にはオーストリア・ナポリ王国・イギリス・ロシア・オスマン帝国の間で同盟を成立させていた。【第二次対仏大同盟:イギリス・オーストリア・ナポリ王国・ロシア(1800年に離脱);オスマン帝国;ポルトガル・サルデーニャ王国 ※スペインが1796年8月19日にフランスと同盟 ※プロシアは中立


1798.2.15 衛星国家ローマ共和国の成立, ヴァチカン占領【教皇領の一時消滅】

ラシュタット会議(1798年1月19日〜1799年3月21日)の開催中の1798年2月に、ナポレオン・ボナパルトは教皇領に侵攻した。


1798年2月15日にローマ市民が教皇権力を否定してローマ共和国(1798年2月15日〜1799年9月30日)の成立を宣言すると、これを承認してヴァチカンを占領し、ローマ教皇庁を制圧した。


ちなみに、1798年11月28日にオーストリア・ナポリ王国連合軍がローマ共和国に侵攻してローマを占領したが、1799年9月30日にフランス軍はローマを再占領した。1800年6月にはローマ共和国は廃止されて教皇領が復活したが、背景にはコンコルダート(1801年7月16日に教皇がナポレオン・ボナパルトの統領政府を正式承認し、没収教会財産の返還要求をしないことに同意)に向けた交渉が行われている中でフランス側が教皇庁に妥協した事情があった。


ナポレオン1世と教皇はやがて対立し、1805年2月2日にフランス軍はローマを再度占領して、1809年5月17日に併合した。


1798.4.12 衛星国家ヘルヴェティア共和国の建国【スイス連邦の一時消滅】

ラシュタット会議(1798年1月19日〜1799年3月21日)の開催中の1798年3月5日にフランス軍はスイスにも侵攻した。スイス連邦(1291年8月1日誓約同盟〜1648年10月24日ウェストファリア条約〜)の盟約者団は崩壊し、4月12日に衛星国家ヘルヴェティア共和国(1798年4月12日〜1803年2月19日)の建国が宣言された。1798年8月19日にヘルヴェティア共和国とフランスは相互防衛同盟を結成した。


中央集権的な統治は機能せず、1803年2月19日にナポレオン・ボナパルトの仲裁によって盟約者団が復活した。この際に、アールガウ、トゥールガウ、グラウビュンデン、ザンクト・ガレン、ヴォー、ティチーノの6州が新カントンとして盟約者団に加わった。


1798.6.10-6.12 マルタ諸島征服

1798年6月10日にナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍がマルタ島に上陸した。エジプト遠征への途上だった。フランス軍は同日中に首都ヴァレッタを含むマルタ諸島ほぼ全域を制圧した。聖ヨハネ騎士団(1113年〜)は要塞に籠もって抵抗を続けようとしたが、すぐに降伏せざるを得なかった。


フランスはマルタ諸島の占領統治を開始し、地中海の制海権を左右する要衝に初めて列強の直接支配が及ぶことになった。


1798.7.3-1801 エジプト遠征

フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)の後半、フランス第一共和政(1792年9月21日〜1804年5月18日)はエジプトを支配下に収めて、対仏大同盟を主導するイギリスのインド植民地との連絡を絶とうとした。


ナポレオン・ボナパルトが率いるフランス軍は、ラシュタット会議(1798年1月19日〜1799年3月21日)開催中の1798年7月3日にエジプトに上陸すると、アレクサンドリア、カイロを陥落させた。しかし、8月1日にイギリス艦隊によってアブキール湾に停泊していたフランス艦隊が発見・攻撃され、大敗した。地中海の制海権を失ったフランス軍は補給を断たれてしまった。当然、オスマン帝国も第二次対仏大同盟(1798年12月24日〜1801年2月9日リュネヴィルの和約)に参加した。


ナポレオン・ボナパルトは、シリア攻略を狙ったがアッコ包囲戦(1799年3月20日〜5月21日)に敗北して失敗し、アブキールの戦い(1799年7月25日)でオスマン軍に大勝したものの、8月22日に帰国するためにエジプトを脱出した。残されたフランス軍が1801年に降伏して、この戦争(フランスのエジプト遠征(Expédition d'Égypte)1798年7月3日〜1801年)はイギリスとオスマン帝国の勝利に終わった。


フランス軍撤退後のエジプトは混乱し、1805年5月17日にムハンマド・アリーが総督に就任して事実上の支配が始まった(ムハンマド・アリー朝(1805.5.17-1922.2.28-1953.6.18))。


1798.9.10 衛星国家ピエモンテ共和国の成立, トリノ占領【サルデーニャ大陸領土の一時消失】

ラシュタット会議(1798年1月19日〜1799年3月21日)の開催中の1798年6月にサルデーニャ王国とリグリア共和国の間で戦争が勃発した。


リグリア共和国(1796年6月14日〜1805年6月4日)の建国以来、サルデーニャ王国のピエモンテ領では共和政化を求める反乱が相次いでいた。サルデーニャ王国軍は反乱者をリグリア共和国に駆逐するなどしていた。


1798年7月にフランス軍が介入してピエモンテに侵攻すると、9月にピエモンテ共和国(1798年9月10日〜1799年6月20日)の独立が宣言され、12月6日にはサルデーニャ王国の首都トリノ(仏語:Turinテュラン)を占領した。


1798-1800 NBW マルタ包囲戦・イギリス領マルタ植民地の成立

フランスのマルタ征服(1798年6月10日〜12日)によりフランスによるマルタ諸島の占領統治がはじまったが、数ヶ月のうちにマルタ島住民による反乱が起きた。


マルタ島住民は、イギリス・ポルトガル・ナポリ王国の支援を受けて、約2年間にわたってフランス守備隊を包囲し、ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)がはじまって間もない1800年にフランス守備隊はイギリス軍に降伏した。


これにより今度はイギリスがマルタ諸島の占領統治を開始し、地中海の制海権を左右する要衝がイギリス艦隊の拠点となった。また、フランスのエジプト遠征軍は補給路を断たれることになった。

参照文献:北原淳監修「一冊でわかるイタリア史」河出書房新社

参照文献:福利憲彦監修「一冊でわかるフランス史」河出書房新社

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