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フランス革命戦争[FRW]③

  • 執筆者の写真: 四々縦七
    四々縦七
  • 2022年2月3日
  • 読了時間: 9分

更新日:2022年9月23日

フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)とナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)について、フランスの視点からまとめる。


FRW③エジプト遠征中の第二次対仏大同盟結成

ナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征で苦戦していると、1798年11月28日にオーストリア・ナポリ連合軍がローマ共和国に侵攻してローマを占領し、12月にはオーストリア・ナポリ王国・イギリス・ロシア・オスマン帝国の間で同盟を成立させていた。【第二次対仏大同盟:イギリス・オーストリア・ナポリ王国・ロシア(1800年に離脱);オスマン帝国;ポルトガル・サルデーニャ王国 ※スペインが1796年8月19日にフランスと同盟済み ※プロシアは1795年4月5日より中立維持


1799年には、ロシア・オーストリア連合軍が北イタリアに侵攻する(イタリア・スイス戦役)のと同時に、オーストリア軍がスイスに侵攻した。また、イギリス・ロシア連合艦隊がネーデルラントに遠征した。


【ロシア・オーストリア連合軍によるイタリア・スイス遠征】

アレクサンドル・スヴォーロフ率いるロシア・オーストリア連合軍は1799年4月29日にミラノを制圧し、5月27日にトリノを制圧すると、フランス軍が籠城するジェノヴァを除く北イタリア一帯を奪回することに成功した。


ヘルヴェティア共和国(スイス)に侵攻したオーストリア軍は、1799年6月7日にはチューリッヒを制圧していた(第一次チューリッヒの戦い)ものの、その後フランス軍と膠着状態に陥っていた。アレクサンドル・スヴォーロフ率いるロシア軍は、ジェノヴァ攻略をオーストリア軍に任せ、スイスに駐留するオーストリア軍に合流するために、9月に北イタリアから北上を開始していた。


9月末にフランス軍はオーストリア軍に勝利してチューリッヒを奪還(第二次チューリッヒの戦い(1799年9月25~26日))し、スイス領内でオーストリア軍の敗報に接したアレクサンドル・スヴォーロフ率いるロシア軍は、東に転進して10月のアルプス越えを敢行してオーストリアに脱出した。


【英露艦隊のネーデルラント遠征】

1799年8月27日にイギリス・ロシア連合艦隊がバタヴィア共和国に侵攻した。フランス・バタヴィア連合軍の勝利で、11月19日にはイギリス・ロシア連合艦隊は撤退したが、バタヴィア艦隊(旧ネーデルラント連邦共和国艦隊)の大部分の鹵獲に成功したため、イギリスの当初の目的は達せられた。


イギリスの制海権確保にとって、フランスが旧ネーデルラント連邦共和国の艦隊を入手することを防ぐのは最優先事項だった。

1798.1.19-1799.3.21 ラシュタット会議【墺仏交渉】

1798年1月19日から1799年3月21日まで講和会議が開かれた。ライン川西岸(ラインラント)の領有権をめぐって、スウェーデンの調停により、オーストリアとフランスの利害調整が図られたが、失敗に終わった。ライン川西岸(ラインラント)については、プロシアがフランスの領有を認めていた(1795年4月5日バーゼル条約)。


ラシュタット会議(1798年1月19日〜1799年3月21日)の開催中に、フランスはローマ共和国(1798年2月15日〜1799年9月30日)を承認してローマ教皇庁を制圧し、エジプト遠征(1798年7月3日〜1801年)を開始し、サルデーニャ王国からピエモンテ共和国(1798年9月10日〜1799年6月20日)を独立させた。


一方のオーストリアは、1798年5月にナポリ王国と同盟して、11月28日にオーストリア・ナポリ王国連合軍がローマ共和国に侵攻してローマを占領し、12月にはオーストリア・ナポリ王国・イギリス・ロシア・オスマン帝国の間で同盟を成立させていた。【第二次対仏大同盟:イギリス・オーストリア・ナポリ王国・ロシア(1800年に離脱);オスマン帝国;ポルトガル・サルデーニャ王国 ※スペインが1796年8月19日にフランスと同盟 ※プロシアは中立


1798.7.3-1801 フランスのエジプト遠征

フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)の後半、フランス第一共和政(1792年9月21日〜1804年5月18日)はエジプトを支配下に収めて、対仏大同盟を主導するイギリスのインド植民地との連絡を絶とうとした。


ナポレオン・ボナパルトが率いるフランス軍は、ラシュタット会議(1798年1月19日〜1799年3月21日)開催中の1798年7月3日にエジプトに上陸すると、アレクサンドリア、カイロを陥落させた。しかし、8月1日にイギリス艦隊によってアブキール湾に停泊していたフランス艦隊が発見・攻撃され、大敗した。地中海の制海権を失ったフランス軍は補給を断たれてしまった。当然、オスマン帝国も第二次対仏大同盟(1798年12月24日〜1801年2月9日リュネヴィルの和約)に参加した。


ナポレオン・ボナパルトは、シリア攻略を狙ったがアッコ包囲戦(1799年3月20日〜5月21日)に敗北して失敗し、アブキールの戦い(1799年7月25日)でオスマン軍に大勝したものの、8月22日に帰国するためにエジプトを脱出した。残されたフランス軍が1801年に降伏して、この戦争(フランスのエジプト遠征(Expédition d'Égypte)1798年7月3日〜1801年)はイギリスとオスマン帝国の勝利に終わった。


フランス軍撤退後のエジプトは混乱し、1805年5月17日にムハンマド・アリーが総督に就任して事実上の支配が始まった(ムハンマド・アリー朝(1805.5.17-1922.2.28-1953.6.18))。


1799.3-1801.2.9 ライン戦線, リュネヴィルの和約【墺仏講和】

ライン川国境を超えてオーストリア領内に侵攻したフランス軍に対し、オーストリア軍はボーデン湖北岸で迎撃して衝突した。オーストリア軍はシュトックアッハの戦い(1799年3月25日)に勝利したものの、それ以降は両軍の対峙がつづいていた。


しかし、フランス軍はホッホシュタットの戦い(1800年6月19日)でオーストリア軍に勝利し、7月にはミュンヘンまで迫ったため、1800年7月15日にオーストリアはフランスと休戦した。


交渉は不成立に終わり11月13日に戦闘を再開したが、12月3日にフランス軍がオーストリア軍に対して決定的な勝利を収めた(ホーエンリンデンの戦い)。


1801年2月9日にフランスの勝利で講和し、オーストリアはフランスによるライン川西岸(ラインラント)併合を承認し、トスカーナ大公国(1569年〜1801年3月21日)を割譲し、バタヴィア共和国・ヘルヴェティア共和国・チザルピーナ共和国・リグリア共和国の承認を再確認した(リュネヴィルの和約)。

 

1798.11.28 オーストリア・ナポリ連合軍のローマ占領

1798年11月28日にオーストリア・ナポリ王国連合軍がローマ共和国(1798年2月15日〜1799年9月30日)に侵攻してローマを占領した。


ナポレオン・ボナパルトがエジプト遠征(1798年7月3日〜1801年)で苦戦している最中であり、1798年12月にはオーストリア・ナポリ王国・イギリス・ロシア・オスマン帝国の間で同盟を成立させていた。【第二次対仏大同盟:イギリス・オーストリア・ナポリ王国・ロシア(1800年に離脱);オスマン帝国;ポルトガル・サルデーニャ王国 ※スペインが1796年8月19日にフランスと同盟済み ※プロシアは1795年4月5日より中立維持


1799.4-10 ロシア・オーストリア連合軍によるイタリア・スイス遠征

アレクサンドル・スヴォーロフ率いるロシア・オーストリア連合軍は1799年4月29日にミラノを制圧し、5月27日にトリノを制圧すると、7月には北イタリア一帯を奪回することに成功した。8月15日にジェノヴァ北方でロシア・オーストリア連合軍に敗れたフランス軍は、ジェノヴァに籠城した。


ヘルヴェティア共和国(スイス)に侵攻したオーストリア軍は、1799年6月7日にはチューリッヒを制圧していた(第一次チューリッヒの戦い)ものの、その後フランス軍と膠着状態に陥っていた。アレクサンドル・スヴォーロフ率いるロシア軍は、ジェノヴァ攻略をオーストリア軍に任せ、スイスに駐留するオーストリア軍に合流するために、9月に北イタリアから北上を開始していた。


9月末にフランス軍はオーストリア軍に勝利してチューリッヒを奪還(第二次チューリッヒの戦い(1799年9月25~26日))し、スイス領内でオーストリア軍の敗報に接したアレクサンドル・スヴォーロフ率いるロシア軍は、東に転進して10月のアルプス越えを敢行してオーストリアに脱出した。


1800年に、ロシアはイギリスがバルト海で実施した臨検に抗議して第二次対仏大同盟を離脱した。北イタリアに駐留を続けたオーストリア軍は1800年6月4日にジェノヴァ攻略に成功したが、ナポレオン・ボナパルトによる第二次イタリア遠征により退路を塞がれてしまう。


ロシア・オーストリア連合軍の北イタリア制圧が1799年8月頃に順調に進んでいた状況を受けて、アレクサンドル・スヴォーロフがロシア軍を率いてヘルヴェティア共和国(スイス)に侵攻(オーストリアのスイス侵攻軍とはチューリッヒで合流する予定だった)し、オーストリアはスイス侵攻軍の一部をライン戦線に振り向けようとした様だ。


しかし、オーストリアの北イタリアに対する領土的野心も見え隠れするし、肝心のオーストリア軍が拠点であるチューリッヒを失うという失態を演じてしまい、非のないロシア軍は散々な目に遭う結果となった。また、スイスを失ったことでナポレオン・ボナパルトの第二次イタリア遠征を招き、北イタリアに駐留をつづけていたオーストリア軍も孤立させてしまうことになる。


1799.1.21-6.13 衛星国家パルテノペア共和国【ナポリ王国半島領土の一時消失】

1799年1月21日にフランス軍がナポリ王国に侵攻し、衛星国家パルテノペア共和国(1799年1月21日〜6月13日)を建国した。オーストリア・ナポリ連合軍のローマ占領(1798年11月28日)に対する反撃だった。


ナポリ国王は一旦シチリア島に退避したが、同年6月13日にはナポリ軍がパルテノペア共和国を滅ぼして半島領土を回復した。


1799.6.20 FRW 衛星国家ピエモンテ共和国崩壊【サルデーニャ大陸領土の一時回復】

イタリア・スイス遠征(1799年4月〜10月)の途上、アレクサンドル・スヴォーロフ率いるロシア・オーストリア連合軍は、1799年5月27日にトリノを制圧した。6月20日にはピエモンテ共和国(1798年9月10日〜1799年6月20日)を崩壊させ、首都トリノを含むピエモンテ領をナポリ王国に返還した。


ナポリ王国は大陸領土ピエモンテ領を取り戻すことができたが、わずか1年後にはフランス軍が再占領して衛星国家スバルピーネ共和国(1800年6月20日〜1802年9月11日)が成立する。


1799.9.30 フランス軍のローマ再占領, 1800.6 教皇領の復活

1799年9月30日にフランス軍はローマを再び占領した。


1800年6月にはローマ共和国は廃止されて教皇領が復活したが、背景にはコンコルダート(1801年7月16日に教皇がナポレオン・ボナパルトの統領政府を正式承認し、没収教会財産の返還要求をしないことに同意)に向けた交渉が行われている中でフランス側が教皇庁に妥協した事情があった。


ナポレオン1世と教皇はやがて対立し、1805年2月2日にフランス軍はローマを再度占領して、1809年5月17日に併合した。


 

1799.8.27-11.19 英露艦隊のネーデルラント遠征

1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立した。イギリスの制海権確保にとって、フランスが旧ネーデルラント連邦共和国の艦隊を入手することを防ぐのは最優先事項だった。


1799年8月27日にイギリス・ロシア連合艦隊がバタヴィア共和国に侵攻した。フランス・バタヴィア連合軍の勝利で、11月19日にはイギリス・ロシア連合艦隊は撤退したが、バタヴィア艦隊(旧ネーデルラント連邦共和国艦隊)の大部分の鹵獲に成功したため、イギリスの当初の目的は達せられた。

参照文献:北原淳監修「一冊でわかるイタリア史」河出書房新社

参照文献:福利憲彦監修「一冊でわかるフランス史」河出書房新社

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