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イラン(ペルシア)1501-1979.2.11

  • 執筆者の写真: 四々縦七
    四々縦七
  • 2022年7月13日
  • 読了時間: 6分

1736年3月21日に、サファヴィー朝(1501年〜1736年3月21日、シーア派の十二イマーム派を国教とした)のアッバース3世の摂政ナーディル・クリー・ベグがアッバース3世を退位させて、ナーディル・シャーとして皇帝に即位した。これにより、サファヴィー朝(1501年〜1736年3月21日)は滅亡してアフシャール朝(1736年3月21日〜1796年)が成立したが、1747年7月19日にナーディル・シャーが死去するとイラン(ペルシア)は内戦状態となった。


ザンド族のカリーム・ハーン(ザンド朝(1750年〜1794年)の始祖)とガージャール族のムハンマド・ハサンとが対立したが、ムハンマド・ハサンが1757年のシーラーズの戦いで敗退したのち殺害され、その息子アーガー・モハンマドは人質とされた。


1779年にカリーム・ハーンが死去すると後継者争いになり、逃亡したアーガー・モハンマドがガージャール族をまとめ上げて、1794年にザンド朝を滅ぼし、1796年にアフシャール朝も滅ぼし、アーガー・モハンマド・シャーとして皇帝に即位してガージャール朝(1779年〜1925年12月15日)を創始した。


ガージャール朝 1779-1925.12.15

ちょうど現代世界史が始まる(1775年4月19日)ころ、ガージャール朝(1779年〜1925年12月15日)が、サファヴィー朝(1501年〜1736年)滅亡後のイラン(ペルシア)を統一した。


【ナポレオン戦争(1799年11月9日〜1815年11月20日)】

しかし、南下政策をとるロシアに南コーカサス地方(現在のジョージア・アゼルバイジャン・アルメニア3国の総称)を奪われる。


【英露グレートゲーム(1828年2月21日〜1907年8月31日)】

そして、ロシアに侵略されるがゆえにイギリスがイギリス領インド帝国(1858年8月2日〜1947年8月15日)から北上してきて領内を侵略された。英露グレートゲーム(GreatGame、1828年2月21日〜1907年8月31日)は、1828年2月21日のトルコマンチャーイ条約(第二次ロシア・ペルシア戦争 (1826年〜1828年2月21日)の講和条約)の締結にはじまったのだ。


そして、イギリスとロシアはガージャール朝(1779年〜1925年12月15日)の独立を認めつつ、北部をロシアの、南部をイギリスの勢力圏として、その間を緩衝地帯とすることで折り合いをつけてグレートゲームを終わらせた(英露協商(1907年8月31日))。ロシアが黒海とカスピ海の間を南下するルートは、コーカサス山脈を超えて南コーカサス地方を勢力圏とすることに成功したところで、イギリスによって堰き止められたわけである。


【ポスト英露グレートゲーム】

1909年4月14日にアングロペルシア石油が設立され、1914年にイギリスが株式の51%を取得した。イギリスはイラン(ペルシア)領内の石油の独占的採掘権を握ることになった。


パフラヴィー朝 1925.12.15-1979.2.11

【第一次世界大戦(1914年7月28日〜1918年11月11日)】

第一次世界大戦後の1921年にレザー・ハーンがクーデターを起こし、1925年12月15日にレザー・シャーとして皇帝に即位した。これにより、ガージャール朝(1779年〜1925年12月15日)は滅亡してパフラヴィー朝(1925年12月15日〜1979年2月11日)が成立した。


1935年3月21日にレザー・シャーが国名をイランと改めた。イランとは、アーリア人の国を意味する。


【第二次世界大戦(1939年9月1日〜1945年9月2日)】

1941年9月16日にモハンマド・レザー・シャーが第2代皇帝として即位した。


【米ソ冷戦(1945年2月4日〜1989年12月3日)】

To Come


現在のイランの領土

現在のイランの領土は、北はカスピ海に面し、南はペルシャ湾とオマーン湾を擁している。東側ではきたから時計回りにトルクメニスタン・アフガニスタン・パキスタンと国境を接し、西側は南から時計回りにイラク・トルコ・アルメニア・アゼルバイジャンと国境を接している。

イラン・イスラム共和国の国旗
イラン・イスラム共和国の国旗

1804-1813.10.24 NBW 第一次ロシア・ペルシア戦争, ゴレスターン条約

1804年に、南コーカサス地方(現在のジョージア・アゼルバイジャン・アルメニア3国の総称)の領有権をめぐって、ロシアとペルシア(ガージャール朝(1779年〜1925年12月15日))との間の戦争が勃発した(第一次ロシア・ペルシア戦争 (1804年〜1813年10月24日ゴレスターン条約))。


第三次対仏大同盟に参加していたロシアは、フランスと協調することを約束(ティルジットの和約(1807年7月7日))してから再び敵対してフランスがロシアに遠征する(1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日)))までの間は、南下政策に注力することができた。


1813年10月24日にロシアが勝利して、現在のジョージアとアゼルバイジャンの領土の一部を割譲した(ゴレスターン条約)。


1826-1828.2.21 GG 第二次ロシア・ペルシア戦争, トルコマンチャーイ条約

1826年に、ふたたび南コーカサス地方(現在のジョージア・アゼルバイジャン・アルメニア3国の総称)の領有権をめぐって、ロシアとペルシア(ガージャール朝(1779年〜1925年12月15日))との間の戦争が勃発した(第二次ロシア・ペルシア戦争 (1826年〜1828年2月21日))。


1828年2月21日にロシアが勝利して、現在のアルメニアとアゼルバイジャンの残りの領土を割譲した(トルコマンチャーイ条約)。


トルコマンチャーイ条約(Treaty of Turkmenchay)は、ロシア軍艦にカスピ海の独占通行権を認め、ペルシアに賠償金を課す内容も含んでいた。また、ロシアの領事裁判権を認める不平等条約であり、ペルシアが他のヨーロッパ諸国とも不平等条約を結ぶ端緒になった。


また、ロシアが南コーカサス地方を獲得したことで、ロシアの南下政策がイギリスのインド植民地にとっての現実の脅威となり、英露グレートゲーム(GreatGame、1828年2月21日〜1907年8月31日)がはじまった。


1856.11.1-1857.3.4 GG イギリス・ペルシア戦争

1856年に、ペルシア(ガージャール朝(1779年〜1925年12月15日))がヘラート(現在のアフガニスタン北西に位置する都市)の支配権を得ようとしてイギリスと対立、ヘラート周辺とペルシア南部で戦争となった。1857年にイギリスが勝利して、ペルシアのヘラートからの撤退と、イギリスのペルシア領内からの撤退を約して講和(1857年3月4日パリ条約)し、戦争は終結した。


この戦争(イギリス・ペルシア戦争(1856年11月1日〜1857年3月4日))の後、ペルシアのカスピ海東岸地域(現在のトルクメニスタン領地)への影響力が低下した結果、ロシアの同地域への進出を許すことになった。


1881.9.21 GG アクハル条約

カスピ海東岸地域(現在のトルクメニスタン領地)に進出するロシアは、1818年にアシハバードという町(現在のトルクメニスタン中央の南部国境付近に位置)を造っていた。1828年にロシア軍艦のカスピ海の独占通行権をペルシアに認めさせ(トルコマンチャーイ条約(Treaty of Turkmenchay)、第二次ロシア・ペルシア戦争 (1826年-1828年2月22日)の講和条約)、1869年にはカスピ海東岸にクラスノヴォーツク要塞を築いていた。


1881年9月21日に、ペルシア(ガージャール朝(1779年〜1925年12月15日))は、現在のトルクメニスタン南東部地域をロシアに割譲する条約を結んだ(アクハル条約(Treaty of Akhal))。


イギリスは1881年にアフガニスタン(バーラクザイ朝(1826年〜1973年7月17日))の外交権を奪って保護国としていた(第二次アフガン戦争(1878年11月〜1881年))ので、アクハル条約によって、ロシアの勢力圏とイギリスの勢力圏がアフガニスタン北西部国境でも接することになった。


ちなみに、ロシアによるウズベク3ハン国の保護国化・併合(1868年にブハラ・アミール国、1873年にヒヴァ・ハン国を保護国とし、1876年にはコーカンド・ハン国を併合)によって、このころ既に、ロシアの勢力圏はアフガニスタン北部国境まで拡大していた。


1907.8.31 GG 英露協商

英露協商(1907年8月31日)により、イギリスとロシアは、ペルシア(イラン)、アフガニスタン、チベットにおける互いの勢力圏を確認した。英露対立ではじまった英露グレートゲーム(GreatGame、1828年2月21日〜1907年8月31日)は、これにより終結した。

  • ペルシア(イラン):カージャール朝の独立を認めつつ、北部をロシアの、南部をイギリスの勢力圏として、その間を緩衝地帯とする

  • アフガニスタン:バーラクザイ朝をイギリスの勢力圏とする

  • チベット:介入せず緩衝地帯とする

1909.4.14 アングロペルシア石油の設立

1909年4月14日にアングロペルシア石油が設立され、1914年にイギリスが株式の51%を取得した。イギリスはイラン(ペルシア)領内の石油の独占的採掘権を握ることになった。


アングロペルシア石油(1935年にアングロイラン石油、1954年にブリティッシュ・ペトロリアムに名称変更。現在のBP)は、1970年代まで世界の石油生産をほぼ独占状態に置いた7社すなわちセブン・シスターズの1社である(ほかに、スタンダード・オイル・オブ・ニュージャージー、ロイヤル・ダッチ・シェル、スタンダード・オイル・オブ・ニューヨーク、スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア、ガルフ石油、テキサコの6社)。


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