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ナポレオン戦争[NBW]①

  • 執筆者の写真: 四々縦七
    四々縦七
  • 2022年3月1日
  • 読了時間: 9分

更新日:2022年9月23日

フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)とナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)について、フランスの視点からまとめる。


NBW①国民国家フランスの成立と第二次イタリア遠征

フランス国内では、エジプト遠征から途中離脱して帰国したナポレオン・ボナパルトが1799年11月9日にクーデターを起こして第一統領に就任して実権を握っていた(国民国家フランス帝国(共和国)の成立)。これ以降をナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)と呼ぶ。


【第二次イタリア遠征】

1800年5月にナポレオン・ボナパルトはジュネーヴに軍を集結させてグラン・サン・ベルナール峠を越えて北イタリアへ侵攻した(第二次イタリア遠征(1800年5月〜1801年2月9日リュネヴィルの和約)。


北イタリアに駐留していたオーストリア軍はジェノヴァに籠城するフランス軍攻囲中だった。ナポレオンはオーストリア軍の背後に迫り、ミラノを占領したが、ジェノヴァのフランス軍は6月4日に降伏してしまった。


一旦トリノに集結したオーストリア軍は東進して脱出を図り、6月14日にアレッサンドリア近郊のマレンゴでフランス軍と遭遇した。フランス軍が逆転で辛勝し、オーストリア軍は降伏した(マレンゴの戦い)。この戦いの後、フランス軍は北イタリアを再び征圧した。


【ライン戦線, リュネヴィルの和約】

ライン川国境を超えてオーストリア領内に侵攻したフランス軍に対し、オーストリア軍はボーデン湖北岸で迎撃して衝突した。オーストリア軍はシュトックアッハの戦い(1799年3月25日)に勝利したものの、それ以降は両軍の対峙がつづいていた。


しかし、フランス軍はホッホシュタットの戦い(1800年6月19日)でオーストリア軍に勝利し、7月にはミュンヘンまで迫ったため、1800年7月15日にオーストリアはフランスと休戦した。交渉は不成立に終わり11月13日に戦闘を再開したが、12月3日にフランス軍がオーストリア軍に対して決定的な勝利を収めた(ホーエンリンデンの戦い)。


北イタリアでも降伏していた(マレンゴの戦い(1800年6月14日))オーストリアは、戦争継続を断念した。


1801年2月9日にフランスの勝利で講和し、オーストリアはフランスによるライン川西岸(ラインラント)併合を承認し、トスカーナ大公国(1569年〜1801年3月21日)を割譲し、バタヴィア共和国・ヘルヴェティア共和国・チザルピーナ共和国・リグリア共和国の承認を再確認した(リュネヴィルの和約)。

1798.7.3-1801 フランスのエジプト遠征

フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)の後半、フランス第一共和政(1792年9月21日〜1804年5月18日)はエジプトを支配下に収めて、対仏大同盟を主導するイギリスのインド植民地との連絡を絶とうとした。


ナポレオン・ボナパルトが率いるフランス軍は、ラシュタット会議(1798年1月19日〜1799年3月21日)開催中の1798年7月3日にエジプトに上陸すると、アレクサンドリア、カイロを陥落させた。しかし、8月1日にイギリス艦隊によってアブキール湾に停泊していたフランス艦隊が発見・攻撃され、大敗した。地中海の制海権を失ったフランス軍は補給を断たれてしまった。当然、オスマン帝国も第二次対仏大同盟(1798年12月24日〜1801年2月9日リュネヴィルの和約)に参加した。


ナポレオン・ボナパルトは、シリア攻略を狙ったがアッコ包囲戦(1799年3月20日〜5月21日)に敗北して失敗し、アブキールの戦い(1799年7月25日)でオスマン軍に大勝したものの、8月22日に帰国するためにエジプトを脱出した。残されたフランス軍が1801年に降伏して、この戦争(フランスのエジプト遠征(Expédition d'Égypte)1798年7月3日〜1801年)はイギリスとオスマン帝国の勝利に終わった。


フランス軍撤退後のエジプトは混乱し、1805年5月17日にムハンマド・アリーが総督に就任して事実上の支配が始まった(ムハンマド・アリー朝(1805.5.17-1922.2.28-1953.6.18))。


1799.4-10 ロシア・オーストリア連合軍によるイタリア・スイス遠征

アレクサンドル・スヴォーロフ率いるロシア・オーストリア連合軍は1799年4月29日にミラノを制圧し、5月27日にトリノを制圧すると、7月には北イタリア一帯を奪回することに成功した。8月15日にジェノヴァ北方でロシア・オーストリア連合軍に敗れたフランス軍は、ジェノヴァに籠城した。


ヘルヴェティア共和国(スイス)に侵攻したオーストリア軍は、1799年6月7日にはチューリッヒを制圧していた(第一次チューリッヒの戦い)ものの、その後フランス軍と膠着状態に陥っていた。アレクサンドル・スヴォーロフ率いるロシア軍は、ジェノヴァ攻略をオーストリア軍に任せ、スイスに駐留するオーストリア軍に合流するために、9月に北イタリアから北上を開始していた。


9月末にフランス軍はオーストリア軍に勝利してチューリッヒを奪還(第二次チューリッヒの戦い(1799年9月25~26日))し、スイス領内でオーストリア軍の敗報に接したアレクサンドル・スヴォーロフ率いるロシア軍は、東に転進して10月のアルプス越えを敢行してオーストリアに脱出した。


1800年に、ロシアはイギリスがバルト海で実施した臨検に抗議して第二次対仏大同盟を離脱した。北イタリアに駐留を続けたオーストリア軍は1800年6月4日にジェノヴァ攻略に成功したが、ナポレオン・ボナパルトによる第二次イタリア遠征により退路を塞がれてしまう。


ロシア・オーストリア連合軍の北イタリア制圧が1799年8月頃に順調に進んでいた状況を受けて、アレクサンドル・スヴォーロフがロシア軍を率いてヘルヴェティア共和国(スイス)に侵攻(オーストリアのスイス侵攻軍とはチューリッヒで合流する予定だった)し、オーストリアはスイス侵攻軍の一部をライン戦線に振り向けようとした様だ。


しかし、オーストリアの北イタリアに対する領土的野心も見え隠れするし、肝心のオーストリア軍が拠点であるチューリッヒを失うという失態を演じてしまい、非のないロシア軍は散々な目に遭う結果となった。また、スイスを失ったことでナポレオン・ボナパルトの第二次イタリア遠征を招き、北イタリアに駐留をつづけていたオーストリア軍も孤立させてしまうことになる。

 

1800-1801.4.2 NBW 第二次武装中立同盟

フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)終盤のフランスのマルタ征服(1798年6月10日〜12日)と、直後にはじまったマルタ包囲戦(1798年〜1800年)の結果、イギリスによるマルタ諸島の占領統治がはじまった。地中海の制海権を左右する要衝がイギリス艦隊の拠点となったことは、地中海を含むヨーロッパの通商環境における大きな変化だった。


イギリスのマルタ諸島占領(1800年〜)に対して、ロシア、プロシア、デンマーク=ノルウェー、スウェーデンが反対し、1800年中に第二次武装中立同盟(Second League of Armed Neutrality)を結成した。


第二次武装中立同盟(1800年〜1801年4月2日)が原因となって、イギリスとデンマーク=ノルウェーは対立(1801年4月2日コペンハーゲンの海戦)し、1807年にはデンマーク=ノルウェーがフランスと同盟することになる。ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征も、マルタ征服も失敗に終わったが、意外な形で同盟国を獲得することにつながったわけだ。


1801.4.2 NBW コペンハーゲンの海戦

イギリスのマルタ諸島占領(1800年〜)に反対して、ロシア、プロシア、デンマーク=ノルウェー、スウェーデンが第二次武装中立同盟(1800年〜1801年4月2日)を結成した。これが引き金となって、1801年4月2日にイギリス艦隊がデンマーク=ノルウェー二重王国艦隊の艦船15隻を破壊・捕獲した(コペンハーゲンの海戦(First Battle of Copenhagen))。


デンマーク=ノルウェー二重王国は第二次武装中立同盟(1800年〜1801年)から脱退し、当該同盟も崩壊した。イギリスの制海権確保にとって、フランスがデンマーク=ノルウェー二重王国艦隊を入手することを防ぐのは最優先事項だった。


1800.5-1801.2.9 第二次イタリア遠征, 北イタリア再制圧

1800年5月にナポレオン・ボナパルトはジュネーヴに軍を集結させてグラン・サン・ベルナール峠を越えて北イタリアへ侵攻した(第二次イタリア遠征(1800年5月〜1801年2月9日リュネヴィルの和約)。


北イタリアに駐留していたオーストリア軍はジェノヴァに籠城するフランス軍攻囲中だった。ナポレオンはオーストリア軍の背後に迫り、ミラノを占領したが、ジェノヴァのフランス軍は6月4日に降伏してしまった。


一旦トリノに集結したオーストリア軍は東進して脱出を図り、6月14日にアレッサンドリア近郊のマレンゴでフランス軍と遭遇した。フランス軍が逆転で辛勝し、オーストリア軍は降伏した(マレンゴの戦い)。この戦いの後、フランス軍は北イタリアを再び征圧した。


1800.6.20 衛星国家スバルピーネ共和国の成立【サルデーニャ大陸領土の再度消失】

1800年6月20日にフランス軍が再占領して、衛星国家スバルピーネ共和国(1800年6月20日〜1802年9月11日)が成立した。


ロシア・オーストリア連合軍の侵攻により、1799年6月20日にピエモンテ共和国(1798年9月10日〜1799年6月20日)が崩壊していた。


フランスの衛星国家スバルピーネ共和国(1800年6月20日〜1802年9月11日)の成立により、サルデーニャ王国はわずか1年で再び大陸領土ピエモンテ領を失ったが、サルデーニャ島に存続した。


1799.3-1801.2.9ライン戦線, リュネヴィルの和約【墺仏講和】

ライン川国境を超えてオーストリア領内に侵攻したフランス軍に対し、オーストリア軍はボーデン湖北岸で迎撃して衝突した。オーストリア軍はシュトックアッハの戦い(1799年3月25日)に勝利したものの、それ以降は両軍の対峙がつづいていた。


しかし、フランス軍はホッホシュタットの戦い(1800年6月19日)でオーストリア軍に勝利し、7月にはミュンヘンまで迫ったため、1800年7月15日にオーストリアはフランスと休戦した。交渉は不成立に終わり11月13日に戦闘を再開したが、12月3日にフランス軍がオーストリア軍に対して決定的な勝利を収めた(ホーエンリンデンの戦い)。


1801年2月9日にフランスの勝利で講和し、オーストリアはフランスによるライン川西岸(ラインラント)併合を承認し、トスカーナ大公国(1569年〜1801年3月21日)を割譲し、バタヴィア共和国・ヘルヴェティア共和国・チザルピーナ共和国・リグリア共和国の承認を再確認した(リュネヴィルの和約)。


1801.3.21 衛星国家エトルリア王国の建国【トスカーナ大公国の滅亡】

1801年2月9日にオーストリアはフランスと講和し、トスカーナ大公国(1569年〜1801年3月21日)を割譲した(リュネヴィルの和約)。同年3月21日にナポレオンによる衛星国家としてエトルリア王国(1801年3月21日〜1807年12月10日)が建国された。


1802.11.1 パルマ公国の降伏

1802年11月1日にパルマ公国(1545年9月16日〜1860年3月12日)がフランスに降伏した。


パルマ公国の公位は、1814年にマリーア・ルイーザ(ナポレオンの妻でハプスブルク家皇女)に渡され、そのまま終戦を迎え、彼女の亡くなった1847年にブルボン=パルマ家に戻された。


1803.2.19 スイス連邦の復活

衛星国家ヘルヴェティア共和国(1798年4月12日〜1803年2月19日)の中央集権的な統治は機能せず、1803年2月19日にナポレオン・ボナパルトの仲裁によってスイス連邦(1291年8月1日誓約同盟〜1648年10月24日ウェストファリア条約〜)の盟約者団が復活した。この際に、アールガウ、トゥールガウ、グラウビュンデン、ザンクト・ガレン、ヴォー、ティチーノの6州が新カントンとして盟約者団に加わった。


1798年8月19日にヘルヴェティア共和国とフランスは相互防衛同盟を結成していたので、スイス連邦は依然としてフランスの衛星国家ではあった。

参照文献:北原淳監修「一冊でわかるイタリア史」河出書房新社

参照文献:福利憲彦監修「一冊でわかるフランス史」河出書房新社

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