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ナポレオン戦争[NBW]②③

  • 執筆者の写真: 四々縦七
    四々縦七
  • 2022年3月2日
  • 読了時間: 13分

更新日:2022年9月20日

フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)とナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)について、フランスの視点からまとめる。


NBW②第三次対仏大同盟

1802年3月25日にイギリスもフランスと講和していた(アミアンの和約)が、講和の取決めはほとんど守られなかった。1803年5月16日には、イギリスはアミアンの和約(1802年3月25日〜1803年5月16日)を破棄して再度フランスへ宣戦布告した。【第三次対仏大同盟:イギリス・オーストリア・ナポリ王国・ロシア・スウェーデン(1805年8月9日参加);ポルトガル・サルデーニャ王国 ※スペインが1796年8月19日にフランスと同盟済み ※プロシアは1795年4月5日より中立維持


1804年5月14日には、ナポレオン・ボナパルトがノートルダム大聖堂で『フランス人民の皇帝』を戴冠してフランス帝国第一帝政(1804年5月18日帝政宣言〜1814年4月4日NB退位、1815年3月20日〜6月22日NB百日天下)となった。


1803年5月16日の宣戦布告以降ずっとイギリスはフランス軍上陸の脅威にさらされていた。しかし、1805年10月21日にスペインのトラファルガー岬の沖で、イギリス艦隊がフランス・スペイン連合艦隊を壊滅させた(トラファルガーの海戦)。この勝利でイギリスの制海権は万全となり、フランス軍のイギリス本土上陸のおそれは極めて小さくなった。


一方、ウルム戦役(1805年9月25日〜10月20日)でオーストリア軍がフランス軍に敗れ、アウステルリッツの戦い(1805年12月2日)でもオーストリア・ロシア連合軍がフランス軍に敗れてしまうと、1805年12月26日にオーストリアはフランスと講和して第三次対仏大同盟を離脱した。講和条約でオーストリアは、旧ヴェネツィア共和国領地のうちイストリア・ダルマチアを割譲し、イタリア王国を承認して同国に旧ヴェネツィア共和国領地のうちヴェネツィアを割譲した(プレスブルクの和約)。


NBW③プロシア戦役とティルジットの和約

1806年7月12日に神聖ローマ帝国内のすべてのドイツ諸侯が離脱してフランスと同盟した(ライン同盟、ナポレオン・ボナパルトが盟主、事実上の保護国化)ため、同年8月6日にフランツ2世は神聖ローマ帝国(962年〜)の解散を表明した。


ライン同盟の成立(1806年7月12日)に危機感を抱いたプロシアがバーゼル条約(1795年4月5日)以来の中立政策を改めて、1806年10月9日にフランスに宣戦布告した。オーストリアが抜けた第三次対仏大同盟にプロシアが合流して、第四次対仏大同盟が成立した。【第四次対仏大同盟:プロシア・イギリス・ロシア・スウェーデン;ポルトガル・サルデーニャ王国・ナポリ王国 ※スペインが1796年8月19日にフランスと同盟済み ※デンマーク=ノルウェーが1807年にフランスと同盟 ※オーストリア不参加 ※プロシア参加】


1806年10月14日にフランス軍はプロシア軍に壊滅的な打撃を与えて勝利し、10月25日にベルリンを制圧した。1806年11月21日にベルリンで、ナポレオン・ボナパルトは大陸封鎖令を発令している。プロシア王は東プロシアに逃れてケーニヒスベルクを臨時首都としたところ、フランスもポーランドに進軍した。


アイラウの戦い(1807年2月7日〜8日)でフランス軍はロシア・プロイセン連合軍に辛勝し、フリートラントの戦い(6月14日)でフランス軍はロシア軍に大打撃を与えて勝利した。1807年6月16日にはフランス軍が臨時首都ケーニヒスベルクを占領し、プロシアは降伏した。プロシアは10年と6ヶ月のあいだ中立を決め込んだ挙句、ようやく危機感を抱いて宣戦布告してみたら僅か8ヶ月で降伏まで追い込まれた計算になる。


1807年7月7日にロシアとフランスが、1807年7月9日にプロシアとフランスが講和した(ティルジットの和約)。プロシアは、エルベ川以西の領地と旧ポーランド領を割譲し、賠償金を課せらせ、賠償金支払完了までのフランス軍駐留を認めさせられた。


ティルジットの和約(1807年7月9日に普仏が講和)に基づいて、エルベ川以西の旧プロシア領にはフランスの衛星国家ウェストヴァーレン王国(1807年7月9日〜1813年10月、1807年11月15日にライン同盟に加盟)が建国され、ナポレオン・ボナパルトの3番目の弟ジェローム・ボナパルトが王位に就き、プロシアの旧ポーランド領にはポーランドがワルシャワ公国という名称で復活した。


ティルジットの和約(1807年7月7日に露仏が講和)では、フランスとロシアが協調することが約束された。具体的な取決めは、ロシアがイギリスへ宣戦布告すること、ロシアがスウェーデンに圧力をかけて大陸封鎖令に参加させること、その見返りにフランスはロシアがフィンランドを獲得することを容認すること、ロシアが占領している地中海のイオニア諸島をフランスに返還すること、であった。また、ロシアは大陸封鎖令(1806年11月21日にフランスが発令)に参加した。

1802.3.25-1803.5.16 アミアンの和約【英仏講和】

1802年3月25日にイギリスもフランスと講和していた(アミアンの和約)が、講和の取決めはほとんど守られなかった。


ただし、1796年までにセイロン島のオランダ全拠点を制圧して成立していたイギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)はバタヴィア共和国への返還対象に含まれず、事実上イギリスの植民地として認められた。


1803年5月16日には、イギリスはアミアンの和約(1802年3月25日〜1803年5月16日)を破棄して再度フランスへ宣戦布告した。【第三次対仏大同盟:イギリス・オーストリア・ナポリ王国・ロシア・スウェーデン(1805年8月9日に参加);ポルトガル・サルデーニャ王国 ※スペインが1796年8月19日にフランスと同盟済み ※プロシアは1795年4月5日より中立維持


1805.10.21 トラファルガーの海戦【仏西連合艦隊の壊滅】

1803年5月16日の宣戦布告以降ずっとイギリスはフランス軍上陸の脅威にさらされていた。しかし、1805年10月21日にスペインのトラファルガー岬の沖で、イギリス艦隊がフランス・スペイン連合艦隊を壊滅させた(トラファルガーの海戦)。


この勝利でイギリスの制海権は万全となり、フランス軍のイギリス本土上陸のおそれは極めて小さくなった。


ロンドンのトラファルガー広場はこの戦勝を記念して造られ、ホレーショ・ネルソン提督の記念碑も建てられている。ネルソン提督はこの海戦で戦死したが、彼こそがイギリスの英雄であり、彼が同戦で掲げた信号文"England expects that every man will do his duty"が有名。


1805.10.31-1810.1.6 ポメラニア戦争, パリ条約

1792年4月20日にフランスがオーストリアに宣戦布告して「フランス革命戦争」がはじまって以来、スウェーデンは中立を保っていた。しかし、1804年にフランスとの国交を断絶し、イギリスがスウェーデン領ポメラニアを軍事拠点として利用することを認めた。


1805年8月9日にスウェーデンは第三次対仏大同盟に参加し、1805年10月31日にスウェーデンがフランスに宣戦布告してポメラニア戦争(Franco-Swedish War、1805年10月31日〜1810年1月6日パリ条約)が勃発した。


スウェーデンは第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808年2月〜1809年9月17日フレデリクスハムンの和約)に敗北したため、1810年1月6日にロシアの仲介でフランスの勝利で講和し、スウェーデンは大陸封鎖令(1806年11月21日にフランスが発令)に参加した(パリ条約)。これにより、スウェーデンは第五次対仏大同盟から離脱した。


1805.12.26 プレスブルクの和約【墺仏講和】

1805年10月21日にスペインのトラファルガー岬の沖で、イギリス艦隊がフランス・スペイン連合艦隊を壊滅させた(トラファルガーの海戦)。


一方、ウルム戦役(1805年9月25日〜10月20日)でオーストリア軍がフランス軍に敗れ、アウステルリッツの戦い(1805年12月2日)でもオーストリア・ロシア連合軍がフランス軍に敗れてしまった。


1805年12月26日にオーストリアはフランスと講和して第三次対仏大同盟を離脱した。講和条約でオーストリアは、旧ヴェネツィア共和国領地のうちイストリア・ダルマチアを割譲し、イタリア王国を承認して同国に旧ヴェネツィア共和国領地のうちヴェネツィアを割譲した(プレスブルクの和約)。

 

1806.3.30 衛星国家ナポリ王国の建国【ナポリ王国半島領土の消失】

第三次対仏大同盟にも参加したナポリ王国だったが、1805年に再度フランス軍にナポリを占領されてしまった。1806年3月30日にナポレオン・ボナパルトが兄ジョゼフをナポリ王としてフランスの衛星国家ナポリ王国(1806年3月30日〜1815年6月9日)が成立した。


ナポリ王国は第一次対仏大同盟に参加していたが、1796年年中にフランスと講和していた。第二次対仏大同盟にも参加していたところ1799年1月21日にフランス軍に侵攻されてパルテノペア共和国(1799年1月21日〜6月13日)を建国されてしまったが、同年6月13日にはパルテノペア共和国を滅ぼして半島領土を回復していた。


フランスの衛星国家ナポリ王国(領土は半島南部領土のみ)と、いわゆるナポリ王国(ナポリ王国・シチリア王国同君連合)とを混同しないように注意が必要。


フランスの衛星国家ナポリ王国(1806年3月30日〜1815年6月9日)の成立により、ナポリ王国(ナポリ王国・シチリア王国同君連合)はイタリア半島南部領土を奪われたが、シチリア島に存続した。


1806.7.12 ライン同盟の成立【ドイツ諸侯の保護国化】

1806年7月12日に神聖ローマ帝国内のすべてのドイツ諸侯が離脱してフランスと同盟した(ライン同盟)。ライン同盟の盟主はナポレオン・ボナパルトであり、事実上フランスによるドイツ諸侯の保護国化だった。1805年12月26日にオーストリアはフランスと講和して第三次対仏大同盟を離脱していたところ、ライン同盟の成立を受けて1806年8月6日にフランツ2世は神聖ローマ帝国(962年〜)の解散を表明した。


1807年11月15日に、フランスの衛星国家ウェストヴァーレン王国(1807年7月9日〜1813年10月)もライン同盟に加盟した。


1806.10.9-1807.7 プロシア戦役

ライン同盟の成立(1806年7月12日)に危機感を抱いたプロシアがバーゼル条約(1795年4月5日)以来の中立政策を改めて、1806年10月9日にフランスに宣戦布告した。オーストリアが抜けた第三次対仏大同盟にプロシアが合流して、第四次対仏大同盟が成立した。【第四次対仏大同盟:プロシア・イギリス・ロシア・スウェーデン;ポルトガル・サルデーニャ王国・ナポリ王国 ※スペインが1796年8月19日にフランスと同盟済み ※デンマーク=ノルウェーが1807年にフランスと同盟 ※オーストリア不参加 ※プロシア参加】


1806年10月14日にフランス軍はプロシア軍に壊滅的な打撃を与えて勝利し、10月25日にベルリンを制圧した。1806年11月21日にベルリンで、ナポレオン・ボナパルトは大陸封鎖令を発令している。プロシア王は東プロシアに逃れてケーニヒスベルクを臨時首都としたところ、フランスもポーランドに進軍した。


アイラウの戦い(1807年2月7日〜8日)でフランス軍はロシア・プロイセン連合軍に辛勝し、フリートラントの戦い(6月14日)でフランス軍はロシア軍に大打撃を与えて勝利した。1807年6月16日にはフランス軍が臨時首都ケーニヒスベルクを占領し、プロシアは降伏した。プロシアは10年と6ヶ月のあいだ中立を決め込んだ挙句、ようやく危機感を抱いて宣戦布告してみたら僅か8ヶ月で降伏まで追い込まれた計算になる。


1807年7月7日にロシアとフランスが、1807年7月9日にプロシアとフランスが講和した(ティルジットの和約)。プロシアは、エルベ川以西の領地と旧ポーランド領を割譲し、賠償金を課せらせ、賠償金支払完了までのフランス軍駐留を認めさせられた。


1807.7.7 ティルジットの和約【露仏講和・露仏協調の約束】

1807年7月7日にロシアとフランスが、1807年7月9日にプロシアとフランスが講和した(ティルジットの和約)。


ティルジットの和約(1807年7月7日に露仏が講和)では、フランスとロシアが協調することが約束された。具体的な取決めは、ロシアがイギリスへ宣戦布告すること、ロシアがスウェーデンに圧力をかけて大陸封鎖令に参加させること、その見返りにフランスはロシアがフィンランドを獲得することを容認すること、ロシアが占領している地中海のイオニア諸島をフランスに返還すること、であった。また、ロシアは大陸封鎖令(1806年11月21日にフランスが発令)に参加した。


1807.7.9 ティルジットの和約【普仏講和】

1807年7月7日にロシアとフランスが、1807年7月9日にプロシアとフランスが講和した(ティルジットの和約)。プロシアは、エルベ川以西の領地と旧ポーランド領を割譲し、賠償金を課せらせ、賠償金支払完了までのフランス軍駐留を認めさせられた。


ティルジットの和約(1807年7月9日に普仏が講和)に基づいて、エルベ川以西の旧プロシア領にはフランスの衛星国家ウェストヴァーレン王国(1807年7月9日〜1813年10月、1807年11月15日にライン同盟に加盟)が建国され、ナポレオン・ボナパルトの3番目の弟ジェローム・ボナパルトが王位に就き、プロシアの旧ポーランド領にはポーランドがワルシャワ公国という名称で復活した。


1807.7.9 衛星国家ウェストヴァーレン王国の建国【プロシアがエルベ川以西の領地喪失】

1807年7月7日にロシアとフランスが、1807年7月9日にプロシアとフランスが講和した(ティルジットの和約)。プロシアは、エルベ川以西の領地と旧ポーランド領を割譲し、賠償金を課せらせ、賠償金支払完了までのフランス軍駐留を認めさせられた。


ティルジットの和約(1807年7月9日に普仏が講和)に基づいて、エルベ川以西の旧プロシア領にはフランスの衛星国家ウェストヴァーレン王国(1807年7月9日〜1813年10月、1807年11月15日にライン同盟に加盟)が建国され、ナポレオン・ボナパルトの3番目の弟ジェローム・ボナパルトが王位に就き、プロシアの旧ポーランド領にはポーランドがワルシャワ公国という名称で復活した。


1807.7.9 NBW ワルシャワ公国の建国【ポーランドの一時復活】

ライン同盟の成立(1806年7月12日)に危機感を抱いたプロシアがバーゼル条約(1795年4月5日)以来の中立政策を改めて、1806年10月9日にフランスに宣戦布告した。


1806年10月14日にフランス軍はプロシア軍に壊滅的な打撃を与えて勝利し、10月25日にベルリンを制圧した。プロシア王は東プロシアに逃れてケーニヒスベルクを臨時首都としたところ、フランスもポーランドに進軍した。


アイラウの戦い(1807年2月7日〜8日)でフランス軍はロシア・プロイセン連合軍に辛勝し、フリートラントの戦い(6月14日)でフランス軍はロシア軍に大打撃を与えて勝利した。1807年6月16日にはフランス軍が臨時首都ケーニヒスベルクを占領し、プロシアは降伏した。


1807年7月9日にフランスの勝利で講和し、プロシアは旧ポーランド領を割譲した(ティルジットの和約)。ナポレオン・ボナパルトは、プロシアの旧ポーランド領に、ワルシャワ公国(1807年7月9日〜1815年6月9日)という名称でポーランドを復活させた。


ポーランドは、1795年10月24日にロシア・プロシア・オーストリアによってなされた第三次ポーランド分割によって国土が消滅し、滅亡していた。


1807.2.19-1809.1.5 NBW 英土戦争, ダーダネルス条約

ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)のなか、アウステルリッツの戦い(1805年12月2日)でオーストリア・ロシア連合軍がフランス軍に敗れたこともあり、第二次対仏大同盟(1798年〜1801年2月9日リュネヴィルの和約)に参加していたオスマン帝国は、1806年2月にフランスと講和(フランスは第一次セルビア蜂起の鎮圧に協力することを約束)した。


1807年2月19日にイギリス艦隊がダーダネルス海峡に侵攻してマルマラ海でオスマン帝国艦隊を攻撃したが、砲台からの反撃を受けて3月3日には地中海まで撤退した。また、3月16日にイギリス軍はエジプトに上陸してアレクサンドリアを陥落させたが、ムハンマド・アリー率いるエジプト軍に反撃されて撤退した(イギリスのエジプト遠征(Alexandria expedition of 1807))。


この戦争(英土戦争(1807年2月19日〜1809年1月5日))はオスマン帝国の勝利に終わり、1809年1月5日に講和した。イギリスは艦隊と武器供与によりオスマン帝国がフランスに対して独立を維持できるよう約束した(ダーダネルス条約)。

ポーランド共和国の国旗
ポーランド共和国の国旗

1772.8.5 第一次ポーランド分割

1772年8月5日に、プロシア・オーストリア・ロシアは、それぞれの国境に隣接するポーランド・リトアニア共和国(1569年7月1日〜1795年10月24日)の領地を獲得した(第一次ポーランド分割)。


1793.1.23 FRW 第二次ポーランド分割

1789年4月30日に、アメリカ革命戦争(ARW、1775年4月19日〜1783年9月3日)に勝利したアメリカで、ジョージ・ワシントンが大統領に就任してアメリカ合衆国が成立した。同年7月14日にはフランス革命(1789年7月14日〜1795年8月22日)が勃発した。


1791年5月3日に、ポーランド・リトアニア共和国(1569年7月1日〜1795年10月24日)はヨーロッパで最初の成文憲法を制定(世界でもアメリカ合衆国憲法(1788年6月21日公布・1789年5月4日施行)に次いで2番目)して、世界初の立憲君主制を採用した。


立憲君主制に反対する国内抵抗勢力がロシアと結託して改革勢力に対抗していたが、1792年4月20日にフランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)が勃発した。


この様な国内外の状況のなか、1792年5月18日にロシアがポーランド・リトアニア共和国に侵攻して戦争が勃発した(ポーランド・ロシア戦争(1792年5月18日〜7月27日))。ポーランド・リトアニア軍はロシア軍を領内に引き込む戦術を採って戦っていたが、国王が国内抵抗勢力と妥協してしまい防衛戦を継続できなくなってしまった。


戦争中止後すぐに、ロシア・プロシアはポーランド・リトアニア共和国の領地を獲得した(第二次ポーランド分割)。


1795.10.24 FRW 第三次ポーランド分割

1795年10月24日に、プロシア・オーストリア・ロシアは、ポーランド・リトアニア共和国(1569年7月1日〜1795年10月24日)の残った領地すべてを3カ国で分割して獲得した(第三次ポーランド分割)。


ポーランド・リトアニア共和国は領土をすべて失って滅亡した。

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