ナポレオン戦争[NBW]④⑤⑥
- 四々縦七
- 2022年3月3日
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フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)とナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)について、フランスの視点からまとめる。
NBW④大陸封鎖令の発令とティルジットの和約
1806年11月21日にベルリンで、ナポレオン・ボナパルトは大陸封鎖令を発令した。そして、1807年7月7日にロシアとフランスが講和した(ティルジットの和約)。フランスとロシアが協調することとなり、ロシアも大陸封鎖令に参加したうえで、ロシアがイギリスへ宣戦布告し、ロシアがスウェーデンに圧力をかけて大陸封鎖令に参加させることになった。
ロシアはフランスとの約束通り、1807年にイギリスと開戦(英露戦争)し、1808年にスウェーデンと開戦(第二次ロシア・スウェーデン戦争)した。
【英露戦争の勃発】
1807年10月26日に、コペンハーゲン砲撃(1807年9月2日〜7日)を理由としてロシアがイギリスに宣戦布告して英露戦争(1807年10月26日〜1812年7月18日エレブルー条約)が勃発した。イギリスとロシアは、第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808年2月〜1809年9月17日フレデリクスハムンの和約)、露土戦争(1806年〜1812年5月28日ブカレスト条約)、第一次ロシア・ペルシア戦争 (1804年〜1813年10月24日ゴレスターン条約)で敵対したが、ロシアはいずれの戦争においても勝利を収めた。
【第二次ロシア・スウェーデン戦争】
1808年2月にロシアがフィンランドに侵攻して第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808年2月〜1809年9月17日フレデリクスハムンの和約)が勃発した。
NBW⑤スペインのゲリラ戦
ロシアにスウェーデンの大陸封鎖令参加を任せる(1807年7月7日ティルジットの和約)と、残る未参加国はポルトガルだけとなった。ナポレオン・ボナパルトは、1807年10月27日にスペインと秘密裏にポルトガルの占領・分割で合意し、スペインにフランス軍の領内通過を認めさせ(フォンテーヌブロー条約)て、ポルトガルの制圧準備を整えた。
【ポルトガル女王の逃走】
1807年11月にナポレオン・ボナパルトはポルトガル攻略を命じて、フランス軍をイベリア半島に送った。スペイン軍も合流し、12月1日にはフランス・スペイン連合軍がリスボンを攻略した。ところが、ポルトガル女王マリア1世とジョアン王子はポルトガル艦隊と共に11月29日に出港していた。ポルトガルの海外植民地を奪取し損ねたナポレオン・ボナパルトは、同盟国スペインに手を出してしまう。
結果論だが、大陸封鎖令の発令により、ナポレオン・ボナパルトみずから半島戦争(1808年5月2日〜1814年5月30日第一次パリ条約)と1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日)の勃発の原因を作り出すこととなった。大陸封鎖令の発令はナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)の大きな分岐点だった。
【半島戦争の勃発】
1808年になってフランス軍がパンプローナとバルセロナを占領すると、1808年5月2日にスペイン人がマドリッドで暴動を起こし(Dos de Mayo Uprising)て、半島戦争(1808年5月2日〜1814年5月30日第一次パリ条約)が勃発した。反乱鎮圧のために派遣されたフランス軍をスペイン軍が破ると(バイレンの戦い(1808年7月16日〜19日))、6月にはポルトガルでも反乱が起こっていたこともあり、8月になってイギリス軍が上陸してイギリス・ポルトガル連合軍がポルトガルからフランス軍を撤退させた。
半島戦争は一時休戦状態となるが、フランス軍はスペイン人のゲリラ戦に苦しめられ続けることになる。
NBW⑥オーストリア戦役
半島戦争(1808年5月2日〜1814年5月30日第一次パリ条約)が勃発してフランス軍がゲリラ戦に苦しんでいるのを見たオーストリアは、1809年4月9日に北イタリア・バイエルン・ワルシャワ公国の3方面へ同時侵攻して、第五次対仏大同盟を結成した。【第五次対仏大同盟:オーストリア・イギリス・スペイン・ポルトガル・スウェーデン(1810年1月6日離脱);サルデーニャ王国・ナポリ王国 ※ロシアは1807年7月7日からフランスと協調 ※プロシアが不参加でオーストリアが参加】
【オーストリア戦役】
1809年4月9日にオーストリアは、北イタリア・バイエルン・ワルシャワ公国の3方面へ同時侵攻を開始した。
ところが、バイエルン方面のオーストリア軍がライン同盟に駐留するフランス軍の反撃を受けて敗北する等してしまい、1809年5月12日にはナポレオン・ボナパルトにウィーンを占領される事態となってしまった。カール大帝は、ドナウ川を渡河する途中のナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍を撃退して勝利した(アスペルン・エスリンクの戦い(1809年5月21日〜22日)。直接率いた戦闘でナポレオン初めての敗戦)が、荒天夜間のドナウ川渡河を成功させたナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍に敗北(ヴァグラムの戦い(1809年7月5日〜6日))して、停戦を申し入れざるを得なかった。今回のオーストリアは実質的に僅か3ヶ月で負けてしまった計算になる。ちなみに、1809年7月30日にイギリス陸軍がオランダに上陸してオーストリアを側面支援しようとしたが時機を失して効果は挙げられず撤退している(ワルヘレン遠征(Walcheren Campaign)、1809年7月30日〜12月23日)。
1809年10月14日にオーストリアはフランスと講和し、フランスにダルマチア(クロアチアのアドリア海沿岸地域一帯)を、バイエルン王国にチロルを、ワルシャワ公国に北部ガリツィアを、ロシアに東部ガリツィアをそれぞれ割譲し、賠償金を課せられ、陸軍の総兵力を制限された(シェーンブルンの和約)。

1805.10.31-1810.1.6 ポメラニア戦争, パリ条約
1792年4月20日にフランスがオーストリアに宣戦布告して「フランス革命戦争」がはじまって以来、スウェーデンは中立を保っていた。しかし、1804年にフランスとの国交を断絶し、イギリスがスウェーデン領ポメラニアを軍事拠点として利用することを認めた。
1805年8月9日にスウェーデンは第三次対仏大同盟に参加し、1805年10月31日にスウェーデンがフランスに宣戦布告してポメラニア戦争(Franco-Swedish War、1805年10月31日〜1810年1月6日パリ条約)が勃発した。
スウェーデンは第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808年2月〜1809年9月17日フレデリクスハムンの和約)に敗北したため、1810年1月6日にロシアの仲介でフランスの勝利で講和し、スウェーデンは大陸封鎖令(1806年11月21日にフランスが発令)に参加した(パリ条約)。これにより、スウェーデンは第五次対仏大同盟から離脱した。
1806.10.9-1807.7 プロシア戦役
ライン同盟の成立(1806年7月12日)に危機感を抱いたプロシアがバーゼル条約(1795年4月5日)以来の中立政策を改めて、1806年10月9日にフランスに宣戦布告した。オーストリアが抜けた第三次対仏大同盟にプロシアが合流して、第四次対仏大同盟が成立した。【第四次対仏大同盟:プロシア・イギリス・ロシア・スウェーデン(1810年1月6日離脱);ポルトガル・サルデーニャ王国・ナポリ王国 ※スペインが1796年8月19日にフランスと同盟済み ※デンマーク=ノルウェーが1807年にフランスと同盟 ※オーストリア不参加 ※プロシア参加】
1806年10月14日にフランス軍はプロシア軍に壊滅的な打撃を与えて勝利し、10月25日にベルリンを制圧した。1806年11月21日にベルリンで、ナポレオン・ボナパルトは大陸封鎖令を発令している。プロシア王は東プロシアに逃れてケーニヒスベルクを臨時首都としたところ、フランスもポーランドに進軍した。
アイラウの戦い(1807年2月7日〜8日)でフランス軍はロシア・プロイセン連合軍に辛勝し、フリートラントの戦い(6月14日)でフランス軍はロシア軍に大打撃を与えて勝利した。1807年6月16日にはフランス軍が臨時首都ケーニヒスベルクを占領し、プロシアは降伏した。プロシアは10年と6ヶ月のあいだ中立を決め込んだ挙句、ようやく危機感を抱いて宣戦布告してみたら僅か8ヶ月で降伏まで追い込まれた計算になる。
1807年7月7日にロシアとフランスが、1807年7月9日にプロシアとフランスが講和した(ティルジットの和約)。プロシアは、エルベ川以西の領地と旧ポーランド領を割譲し、賠償金を課せらせ、賠償金支払完了までのフランス軍駐留を認めさせられた。
1807.7.7 ティルジットの和約【露仏講和・露仏協調の約束】
1807年7月7日にロシアとフランスが、1807年7月9日にプロシアとフランスが講和した(ティルジットの和約)。
ティルジットの和約(1807年7月7日に露仏が講和)では、フランスとロシアが協調することが約束された。具体的な取決めは、ロシアがイギリスへ宣戦布告すること、ロシアがスウェーデンに圧力をかけて大陸封鎖令に参加させること、その見返りにフランスはロシアがフィンランドを獲得することを容認すること、ロシアが占領している地中海のイオニア諸島をフランスに返還すること、であった。また、ロシアは大陸封鎖令(1806年11月21日にフランスが発令)に参加した。
1806.11.21 大陸封鎖令の発令
1806年11月21日にベルリンで、ナポレオン・ボナパルトは大陸封鎖令を発令した。ベルリン勅令とも言われる。
イギリスとの通信・通商を禁じる内容で、具体的にはフランス帝国及び同盟国領内におけるイギリス人を戦争捕虜とし、イギリスの物資・商品を押収し、イギリスないしイギリス植民地から渡航した船舶はその積荷と共に接収するという内容だ。しかし、事実上はヨーロッパ諸国のイギリスとの交易をフランスとの交易に強制的に切り替えさせる狙いを持った経済政策だった。
大陸封鎖令の発令はナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)の大きな分岐点だった。結果論だが、ナポレオン・ボナパルトみずから半島戦争(1808年5月2日〜1814年5月30日第一次パリ条約)と1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日)の勃発の原因を作り出すこととなった。そして、この2つの遠征に失敗することでフランス第一帝政(1804年5月18日帝政宣言〜1814年4月4日NB退位、1815年3月20日〜6月22日NB百日天下)は滅亡することになる。
大陸封鎖令(1806年11月21日)は、1806年5月16日にイギリスがブレストからエルベ川河口までの全港湾の海上封鎖を決めたことに対抗して、ナポレオン・ボナパルトが「イギリスは封鎖された」と宣言したものだった。本来は、イギリス封鎖令と呼ばれるべきものだったわけだ。しかし、制海権のないフランスには「イギリス港湾の海上封鎖」は実行不可能だった。
1807.9.2-9.5 コペンハーゲン砲撃【デンマーク=ノルウェーが仏と同盟】
1806年11月21日にフランスが大陸封鎖令を発令すると、イギリスはデンマーク=ノルウェー二重王国艦隊の引渡しを条件としてデンマーク=ノルウェー二重王国に同盟を持ち掛けた。デンマーク=ノルウェー二重王国がこれを拒絶すると、1807年9月2日から5日にかけてイギリス艦隊がコペンハーゲン市街地を砲撃した(コペンハーゲン砲撃(Second Battle of Copenhagen))。
デンマーク=ノルウェー二重王国は9月7日に降伏し、10月中にイギリス艦隊はデンマーク=ノルウェー二重王国艦隊の艦船を没収して撤退した。
デンマーク=ノルウェー二重王国はこれ以上の中立政策は採り得ず、同年中にフランスと同盟関係を結んだ。
1807.10.26-1812.7.18 英露戦争, エレブルー条約
1807年7月7日にロシアとフランスが講和し、ロシアがイギリスへ宣戦布告することが約束された(ティルジットの和約)。1807年10月26日に、コペンハーゲン砲撃(1807年9月2日〜7日)を理由としてロシアがイギリスに宣戦布告して英露戦争(1807年10月26日〜1812年7月18日エレブルー条約)が勃発した。
イギリスとロシアは、第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808年2月〜1809年9月17日フレデリクスハムンの和約)、露土戦争(1806年〜1812年5月28日ブカレスト条約)、第一次ロシア・ペルシア戦争 (1804年〜1813年10月24日ゴレスターン条約)で敵対したが、ロシアはいずれの戦争においても勝利を収めた。
ロシアは、スウェーデンからはフィンランド全土とオーランド諸島を獲得(1809年9月17日フレデリクスハムンの和約)し、オスマン帝国からはドニエストル川からプルート川までの地域(ベッサラビア)を獲得(1812年5月28日ブカレスト条約)し、ペルシア(ガージャール朝(1779年〜1925年12月15日))からは南コーカサス地方(現在のジョージア・アゼルバイジャン・アルメニア3国の総称)の一部を獲得(1813年10月24日ゴレスターン条約)した。
ロシア軍とイギリス軍の直接の大規模な軍事衝突は起こらないまま、1812年4月5日には交戦中のイギリス・ロシア・スウェーデンが秘密裏に協調してフランスに対抗することを合意(サンクトペテルブルク条約(Treaty of Saint Petersburg))していた。
1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日)勃発後の1812年7月18日に、公然と講和(エレブルー条約(Treaties of Örebro))して第六次対仏大同盟を結成した。
1808.2-1809.9.17 第二次ロシア・スウェーデン戦争, フレデリクスハムンの和約
1807年7月7日にロシアとフランスが講和し、ロシアがスウェーデンに圧力をかけて大陸封鎖令に参加させることと、その見返りにフランスはロシアがフィンランドを獲得することを容認することが約束された(ティルジットの和約)。
1808年2月にロシアがフィンランドに侵攻して第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808年2月〜1809年9月17日フレデリクスハムンの和約)が勃発した。
1809年9月17日にロシアの勝利で講和し、スウェーデンはフィンランド全土とオーランド諸島を割譲した(フレデリクスハムンの和約)。これにより、ロシアの保護国フィンランド大公国(1809年9月17日〜1917年12月6日ロシアから独立)が成立した。ちなみに、スウェーデンはイギリス・ポルトガルと同盟関係にあった(第三次・第四次対仏大同盟)が、フィンランドをめぐる地上戦には、なんら有効な支援を受けることはできなかった。
1810.1.7-1812.7.18 イギリス・スウェーデン戦争, エレブルー条約
1810年1月7日にパリ条約(1810年1月6日)に基づいてスウェーデンがイギリスに宣戦布告して、イギリス・スウェーデン戦争(1810年1月7日〜1812年7月18日エレブルー条約)が勃発した。
直接の大規模な軍事衝突は起こらないまま、1812年4月5日には交戦中のイギリス・ロシア・スウェーデンが秘密裏に協調してフランスに対抗することを合意(サンクトペテルブルク条約(Treaty of Saint Petersburg))していた。
1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日)勃発後の1812年7月18日に、公然と講和(エレブルー条約(Treaties of Örebro))して第六次対仏大同盟を結成した。
1807.11.29 ポルトガル女王の逃走【仏西軍のポルトガル本土占領】
ロシアにスウェーデンの大陸封鎖令参加を任せる(1807年7月7日ティルジットの和約)と、残る未参加国はポルトガルだけとなった。ナポレオン・ボナパルトは、1807年10月27日にスペインと秘密裏にポルトガルの占領・分割で合意し、スペインにフランス軍の領内通過を認めさせ(フォンテーヌブロー条約)て、ポルトガルの制圧準備を整えた。
1807年11月にナポレオン・ボナパルトはポルトガル攻略を命じて、フランス軍をイベリア半島に送った。スペイン軍も合流し、12月1日にはフランス・スペイン連合軍がリスボンを攻略した。ところが、ポルトガル女王マリア1世とジョアン王子はポルトガル艦隊と共に11月29日に出港していた。英葡永久同盟(1373年6月16日〜現在)に基づき、イギリス艦隊がこれを護衛していた。
ポルトガルの海外植民地を奪取し損ねたナポレオン・ボナパルトは、同盟国スペインに手を出してしまう。
1808.5.2-1814.5.30 半島戦争, 第一次パリ条約
1808年になってフランス軍がパンプローナとバルセロナを占領すると、1808年5月2日にスペイン人がマドリッドで暴動を起こし(Dos de Mayo Uprising)て、半島戦争(1808年5月2日〜1814年5月30日第一次パリ条約)が勃発した。反乱鎮圧のために派遣されたフランス軍をスペイン軍が破ると(バイレンの戦い(1808年7月16日〜19日))、6月にはポルトガルでも反乱が起こっていたこともあり、8月になってイギリス軍が上陸してイギリス・ポルトガル連合軍がポルトガルからフランス軍を撤退させた。
1808年末から1809年初めにかけてナポレオン・ボナパルトが率いるフランス軍がスペインに侵攻して領土の大半を占領した。しかし、これ以降スペイン人はゲリラ戦を展開するようになってフランス駐留軍を苦しめた。スペイン占領を受けて、フランス軍は再度ポルトガルに侵攻したが、イギリス・ポルトガル連合軍の抵抗に遭い、焦土作戦を展開されて補給もままならないため大規模な軍編成もできず、リスボンを陥落させることはできないでいた。1811年5月16日にフランス軍はイギリス・スペイン・ポルトガル連合軍と戦ったが決定的な勝敗はつかず(アルブエラの戦い)、半島戦争(1808年5月2日〜1814年5月30日第一次パリ条約)は一時休戦状態となったため、フランス軍はスペイン人のゲリラ戦に苦しめられ続けた。
1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日)にフランス軍の一部が振り向けられたことにより、1813年になるとイギリス・スペイン・ポルトガル連合軍が攻勢に転じた。退却を始めたフランス軍を追撃して7月にはピレネー山脈まで押し戻し、10月にはフランス本土への侵攻を開始した。
一方、ライプツィヒの戦い(1813年10月16日〜19日)に勝利したロシア・オーストリア・プロシア・スウェーデン連合軍も、フランス本土への侵攻を開始した。
フランス本土に北からロシア・オーストリア・プロシア・スウェーデン連合軍が、南からイギリス・スペイン・ポルトガル連合軍が侵攻する事態となり、1814年3月31日にはパリが陥落した。4月4日にはナポレオン・ボナパルトが退位し、4月6日に王政が復古した(ルイ18世、フランス復古王政(1814年4月6日〜1830年7月29日))。
1814年5月30日にフランスとイギリス・ロシア・プロシア・オーストリア4カ国が講和し、ウィーン会議の開催を取決めた(第一次パリ条約)。スウェーデン・スペイン・ポルトガル3カ国も第一次パリ条約に署名した。
1809 ポルトガルがリオデジャネイロに遷都
1807年11月29日にフランス・スペイン連合軍から逃れて出港したポルトガル女王マリア1世とジョアン王子は、ポルトガル艦隊と共に植民地ブラジル公国に亡命していた。
1809年には、マリア1世はリオデジャネイロに遷都してポルトガルの正式な首都とした。ポルトガルはブラジルを含む植民地統治を継続することができた。
1809.4.9-10.14 オーストリア戦役, シェーンブルンの和約【墺仏講和】
1809年4月9日にオーストリアは、北イタリア・バイエルン・ワルシャワ公国の3方面へ同時侵攻を開始した。
ところが、バイエルン方面のオーストリア軍がライン同盟に駐留するフランス軍の反撃を受けて敗北する等してしまい、1809年5月12日にはナポレオン・ボナパルトにウィーンを占領される事態となってしまった。カール大帝は、ドナウ川を渡河する途中のナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍を撃退して勝利した(アスペルン・エスリンクの戦い(1809年5月21日〜22日)。直接率いた戦闘でナポレオン初めての敗戦)が、荒天夜間のドナウ川渡河を成功させたナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍に敗北(ヴァグラムの戦い(1809年7月5日〜6日))して、停戦を申し入れざるを得なかった。今回のオーストリアは実質的に僅か3ヶ月で負けてしまった計算になる。ちなみに、1809年7月30日にイギリス陸軍がオランダに上陸してオーストリアを側面支援しようとしたが時機を失して効果は挙げられず撤退している(ワルヘレン遠征(Walcheren Campaign)、1809年7月30日〜12月23日)。
1809年10月14日にオーストリアはフランスと講和し、フランスにダルマチア(クロアチアのアドリア海沿岸地域一帯)を、バイエルン王国にチロルを、ワルシャワ公国に北部ガリツィアを、ロシアに東部ガリツィアをそれぞれ割譲し、賠償金を課せられ、陸軍の総兵力を制限された(シェーンブルンの和約)。
1809.7.30-12.23 イギリス陸軍のワルヘレン遠征
1809年7月30日にイギリス陸軍がオランダに上陸して、フランスと戦っていたオーストリア(オーストリア戦役(1809年4月9日〜10月14日))を側面支援しようとした(ワルヘレン遠征(Walcheren Campaign)、1809年7月30日〜12月23日)。
しかし、時機を失して効果は挙げられず撤退した。フランス革命戦争とナポレオン戦争を通じて、総じて海戦では戦果を上げていたイギリス軍だったが、地上戦では戦果を上げられない状況が続いていた。
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