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ナポレオン戦争[NBW]⑦⑧

  • 執筆者の写真: 四々縦七
    四々縦七
  • 2022年3月4日
  • 読了時間: 8分

フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)とナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)について、フランスの視点からまとめる。


NBW⑦ロシアの焦土作戦

半島戦争(1808年5月2日〜1814年5月30日第一次パリ条約)は続いているものの、オーストリアに勝利してフランス帝国の最大版図を誇ったナポレオン・ボナパルトだったが、1810年にロシアが大陸封鎖令を無視してイギリスとの通商を再開した。


【1812年ロシア戦役】

ロシアに大陸封鎖令遵守を求めるナポレオン・ボナパルトの指示でフランス帝国の大陸軍がロシアの旧ポーランド領に侵攻して戦争が勃発した(1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日))。ロシア軍は焦土作戦を展開しながら撤退を繰り返し、大陸軍は9月14日にはモスクワを陥落させていたが、ロシア軍はモスクワをも焼き払って退却していたため食料を得られなかった。1ヶ月ほど駐留する間にもロシア軍の攻撃を受けて大陸軍は兵数を減らし、10月19日に退却を開始した。


ロシアの戦略により、大陸軍の退却路は既に焦土化された往路と同じスモレンスク街道であり、大陸軍は食料補給ができなかった。フランス軍の軍馬の飼料も補給できず、軍馬の大半が餓死するか兵士の食糧として殺された。この結果、大陸軍の騎兵は徒歩で退却することとなり、大陸軍の大砲と荷馬車も廃棄せざるを得なかった。コサック騎馬兵を含むロシア軽騎兵隊は絶えず追撃を行い、脱走兵はロシア人の民兵に殺された。12月14日に大陸軍がロシア領内から駆逐される頃には、侵攻時に60万人以上いた将兵は約2万人にまで減らされていた。


NBW⑧第六次対仏大同盟〜第一次パリ条約

【第六次対仏大同盟】

実は、1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日)勃発前の1812年4月5日には交戦中のイギリス・ロシア・スウェーデンが秘密裏に協調してフランスに対抗することを合意(サンクトペテルブルク条約(Treaty of Saint Petersburg))しており、勃発後の1812年7月18日に公然と講和(エレブルー条約(Treaties of Örebro))して第六次対仏大同盟を結成した。


ナポレオン・ボナパルトがロシアに敗北(1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日))すると、1813年3月17日にはプロシアが、8月11日にはオーストリアがフランスに宣戦布告して、第六次対仏大同盟に合流した。【第六次対仏大同盟:イギリス・スペイン・ポルトガル・ロシア・スウェーデン・プロシア・オーストリア;サルデーニャ王国・ナポリ王国 ※他にもライン同盟に加盟する諸侯が参加】


ロシア・オーストリア・プロシア・スウェーデン連合軍がフランス軍を追い詰め、ナポレオン・ボナパルトはライプツィヒにフランス軍を集結させた。ライプツィヒの戦い(1813年10月16日〜19日)でフランス軍が敗北すると、ロシア・オーストリア・プロシア・スウェーデン連合軍はフランス本土への侵攻を開始した。


【半島戦争】

他方、1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日)にフランス軍の一部が振り向けられたことにより、1813年になるとイギリス・スペイン・ポルトガル連合軍が攻勢に転じた。退却を始めたフランス軍を追撃して7月にはピレネー山脈まで押し戻し、10月にはフランス本土への侵攻を開始した。


【第一次パリ条約】

フランス本土に北からロシア・オーストリア・プロシア・スウェーデン連合軍が、南からイギリス・スペイン・ポルトガル連合軍が侵攻する事態となり、1814年3月31日にはパリが陥落した。4月4日にはナポレオン・ボナパルトが退位し、4月6日に王政が復古した(ルイ18世、フランス復古王政(1814年4月6日〜1830年7月29日))。


1814年5月30日にフランスとイギリス・ロシア・プロシア・オーストリア4カ国が講和し、ウィーン会議の開催を取決めた(第一次パリ条約)。スウェーデン・スペイン・ポルトガル3カ国も第一次パリ条約に署名した。

1808.5.2-1814.5.30 半島戦争, 第一次パリ条約

1808年になってフランス軍がパンプローナとバルセロナを占領すると、1808年5月2日にスペイン人がマドリッドで暴動を起こし(Dos de Mayo Uprising)て、半島戦争(1808年5月2日〜1814年5月30日第一次パリ条約)が勃発した。反乱鎮圧のために派遣されたフランス軍をスペイン軍が破ると(バイレンの戦い(1808年7月16日〜19日))、6月にはポルトガルでも反乱が起こっていたこともあり、8月になってイギリス軍が上陸してイギリス・ポルトガル連合軍がポルトガルからフランス軍を撤退させた。


1808年末から1809年初めにかけてナポレオン・ボナパルトが率いるフランス軍がスペインに侵攻して領土の大半を占領した。しかし、これ以降スペイン人はゲリラ戦を展開するようになってフランス駐留軍を苦しめた。スペイン占領を受けて、フランス軍は再度ポルトガルに侵攻したが、イギリス・ポルトガル連合軍の抵抗に遭い、焦土作戦を展開されて補給もままならないため大規模な軍編成もできず、リスボンを陥落させることはできないでいた。1811年5月16日にフランス軍はイギリス・スペイン・ポルトガル連合軍と戦ったが決定的な勝敗はつかず(アルブエラの戦い)、半島戦争(1808年5月2日〜1814年5月30日第一次パリ条約)は一時休戦状態となったため、フランス軍はスペイン人のゲリラ戦に苦しめられ続けた。


1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日)にフランス軍の一部が振り向けられたことにより、1813年になるとイギリス・スペイン・ポルトガル連合軍が攻勢に転じた。退却を始めたフランス軍を追撃して7月にはピレネー山脈まで押し戻し、10月にはフランス本土への侵攻を開始した。


一方、ライプツィヒの戦い(1813年10月16日〜19日)に勝利したロシア・オーストリア・プロシア・スウェーデン連合軍も、フランス本土への侵攻を開始した。


フランス本土に北からロシア・オーストリア・プロシア・スウェーデン連合軍が、南からイギリス・スペイン・ポルトガル連合軍が侵攻する事態となり、1814年3月31日にはパリが陥落した。4月4日にはナポレオン・ボナパルトが退位し、4月6日に王政が復古した(ルイ18世、フランス復古王政(1814年4月6日〜1830年7月29日))。


1814年5月30日にフランスとイギリス・ロシア・プロシア・オーストリア4カ国が講和し、ウィーン会議の開催を取決めた(第一次パリ条約)。スウェーデン・スペイン・ポルトガル3カ国も第一次パリ条約に署名した。


1807.10.26-1812.7.18 英露戦争, エレブルー条約

1807年7月7日にロシアとフランスが講和し、ロシアがイギリスへ宣戦布告することが約束された(ティルジットの和約)。1807年10月26日に、コペンハーゲン砲撃(1807年9月2日〜7日)を理由としてロシアがイギリスに宣戦布告して英露戦争(1807年10月26日〜1812年7月18日エレブルー条約)が勃発した。


イギリスとロシアは、第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808年2月〜1809年9月17日フレデリクスハムンの和約)、露土戦争(1806年〜1812年5月28日ブカレスト条約)、第一次ロシア・ペルシア戦争 (1804年〜1813年10月24日ゴレスターン条約)で敵対したが、ロシアはいずれの戦争においても勝利を収めた。


ロシアは、スウェーデンからはフィンランド全土とオーランド諸島を獲得(1809年9月17日フレデリクスハムンの和約)し、オスマン帝国からはドニエストル川からプルート川までの地域(ベッサラビア)を獲得(1812年5月28日ブカレスト条約)し、ペルシア(ガージャール朝(1779年〜1925年12月15日))からは南コーカサス地方(現在のジョージア・アゼルバイジャン・アルメニア3国の総称)の一部を獲得(1813年10月24日ゴレスターン条約)した。


ロシア軍とイギリス軍の直接の大規模な軍事衝突は起こらないまま、1812年4月5日には交戦中のイギリス・ロシア・スウェーデンが秘密裏に協調してフランスに対抗することを合意(サンクトペテルブルク条約(Treaty of Saint Petersburg))していた。


1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日)勃発後の1812年7月18日に、公然と講和(エレブルー条約(Treaties of Örebro))して第六次対仏大同盟を結成した。


1810.1.7-1812.7.18 イギリス・スウェーデン戦争, エレブルー条約

1810年1月7日にパリ条約(1810年1月6日)に基づいてスウェーデンがイギリスに宣戦布告して、イギリス・スウェーデン戦争(1810年1月7日〜1812年7月18日エレブルー条約)が勃発した。


直接の大規模な軍事衝突は起こらないまま、1812年4月5日には交戦中のイギリス・ロシア・スウェーデンが秘密裏に協調してフランスに対抗することを合意(サンクトペテルブルク条約(Treaty of Saint Petersburg))していた。


1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日)勃発後の1812年7月18日に、公然と講和(エレブルー条約(Treaties of Örebro))して第六次対仏大同盟を結成した。

 

1812.6.24-12.14 1812年ロシア戦役

ロシアに大陸封鎖令遵守を求めるナポレオン・ボナパルトの指示でフランス帝国の大陸軍がロシアの旧ポーランド領に侵攻して戦争が勃発した(1812年ロシア戦役(1812年6月24日〜12月14日))。


ロシア軍は焦土作戦を展開しながら撤退を繰り返し、大陸軍は9月14日にはモスクワを陥落させていたが、ロシア軍はモスクワをも焼き払って退却していたため食料を得られなかった。1ヶ月ほど駐留する間にもロシア軍の攻撃を受けて大陸軍は兵数を減らし、10月19日に退却を開始した。


ロシアの戦略により、大陸軍の退却路は既に焦土化された往路と同じスモレンスク街道であり、大陸軍は食料補給ができなかった。フランス軍の軍馬の飼料も補給できず、軍馬の大半が餓死するか兵士の食糧として殺された。この結果、大陸軍の騎兵は徒歩で退却することとなり、大陸軍の大砲と荷馬車も廃棄せざるを得なかった。


コサック騎馬兵を含むロシア軽騎兵隊は絶えず追撃を行い、脱走兵はロシア人の民兵に殺された。12月14日に大陸軍がロシア領内から駆逐される頃には、侵攻時に60万人以上いた将兵は約2万人にまで減らされていた。


1813.10.16-19 ライプツィヒの戦い【ライン同盟の崩壊】

1813年10月19日に、36万のロシア・オーストリア・プロシア・スウェーデン連合軍が、ナポレオン・ボナパルト率いる19万のフランス軍に勝利して、ライン同盟(1806年7月12日〜1813年10月19日)を崩壊させた(ライプツィヒの戦い(1813年10月16日〜19日))。


ライプツィヒの戦い(1813年10月16日〜19日)の後、ロシア・オーストリア・プロシア・スウェーデン連合軍はフランス本土への侵攻を開始した。



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