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ナポレオン戦争[NBW]⑨⑩

  • 執筆者の写真: 四々縦七
    四々縦七
  • 2022年3月5日
  • 読了時間: 10分

更新日:2022年9月23日

フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)とナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)について、フランスの視点からまとめる。


NBW⑨フランス第一帝政の滅亡

1814年7月からウィーン会議が開催され、1815年6月9日にウィーン体制の枠組みが形成された(ウィーン議定書(Final Act of the Congress of Vienna (1815)))。


ウィーン会議(1814年7月〜1815年6月9日)開催中に、ナポレオン・ボナパルトがエルバ島を脱出して、1815年3月20日に皇帝に復位した(NB百日天下(1815年3月20日〜6月22日))。しかし、3月25日には英露普墺が第七次対仏大同盟を結成し、6月18日にナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍はイギリス・オランダ連合軍とプロシア軍に敗北してしまい(ワーテルローの戦い)、第七次対仏大同盟はフランス復古王政(1814年4月6日〜1830年7月29日)のルイ18世を復位させた。【第七次対仏大同盟:イギリス・ロシア・プロシア・オーストリア】


1815年11月20日に第七次対仏大同盟が第一次パリ条約を修正(第二次パリ条約)して、ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)は終わった。退位したナポレオン・ボナパルトはセントヘレナ島に流され、1821年に死去した。


NBW⑩ウィーン議定書の内容

イギリス、ロシア、プロシア、オーストリアの主導で、ヨーロッパ各国の領土に関する利害調整がなされた(ウィーン議定書(1815年6月9日))。

  • ネーデルラント連合王国((オラニエ=ナッサウ家、1815年3月16日〜1839年4月19日)は、旧ネーデルラント連邦共和国領を回復し、オーストリアから南ネーデルラント(旧ルクセンブルク公領の大部分を含む)を獲得した。なお、旧ルクセンブルク公領はルクセンブルク大公国とされてドイツ連邦にも加盟し、ネーデルラント王(オランダ王)が大公を兼ねることになった。

  • イギリスは、フランスからマルタ島を獲得し、オランダからセイロン島とケープ植民地を獲得し、また、旧ヴェネツィア共和国(697年〜1797年10月18日)領地だったイオニア諸島の宗主権を獲得してイオニア諸島合衆国を成立させた。

  • ロシアは、ワルシャワ公国の大部分をポーランド立憲王国としてロシア皇帝が王を兼ね(第四次ポーランド分割)、ロシア皇帝が大公を兼ねるフィンランド大公国を承認させ、オスマン帝国からのベッサラビア獲得を承認させた。

  • スイス連邦の独立と永世中立国化が確認された。

  • プロシアは、ラインラント・旧ルクセンブルク公領の一部・オラニエ=ナッサウ家のドイツ内の所領などを獲得し、スウェーデン領ポメラニアを獲得し、ワルシャワ公国の一部をポズナン大公国としてプロイセン王が大公を兼ねた(第四次ポーランド分割)。

  • オーストリアは、フランスに割譲した旧領(バイエルン王国に割譲したチロルを含む)を回復したうえ、旧ヴェネツィア共和国(697年〜1797年10月18日)領地だったイストリア・ダルマチアを獲得し、ロンバルド=ヴェネト王国(旧ヴェネツィア共和国(697年〜1797年10月18日)領地のヴェネツィアと回復した旧領ロンバルディアを併せた領地)を建国してオーストリア皇帝が王を兼ね、ワルシャワ公国の一部をクラクフ共和国としてロシア・プロシアと共同の保護国とした(第四次ポーランド分割)。加えて、オーストリア帝国(ハプスブルク家)を盟主とするドイツ連邦(1815年6月8日〜1866年8月23日)も復活した。

  • サルデーニャ王国は、旧領を回復したうえ、旧ジェノヴァ共和国(1005年〜1797年6月14日)領を獲得した。

  • スウェーデンは、デンマーク=ノルウェーからノルウェーを獲得した。しかし、スウェーデン領ポメラニアは失った。

  • フランスはセネガルを獲得した。

  • ナポリ王国(ナポリ王国・シチリア王国同君連合)は旧領を回復した。

  • スペインは、旧領を回復した。

  • ポルトガルは、戦後イギリスの軍政が敷かれ、ウィーン会議には不参加だった。軍事同盟があってなお、他国の軍隊を自国領土内に入れることがいかに危険なことか…

1815.3.16 ネーデルラント連合王国の成立

1813年にプロシア・ロシア連合軍によって、旧ネーデルラント連邦共和国および旧オーストリア領ネーデルラントがフランス軍から解放された。11月20日には、ネーデルラント連合公国(the Sovereign Principality of the United Netherlands)が成立した。


12月2日にオラニエ=ナッサウ家のウィレム1世が亡命先から帰国すると、ネーデルラント連合公国はウィレム1世に君主の称号を贈り、ウィレム1世が即位した。


1814年3月31日にはパリが陥落し、5月30日にフランスとイギリス・ロシア・プロシア・オーストリア4カ国が講和し、ウィーン会議の開催を取決めた(第一次パリ条約)。


ウィーン会議(1814年7月〜1815年6月9日)が開催されているなか、1815年3月16日にウィレム1世がネーデルラント王(オランダ王)に即位して、ネーデルラント連合王国(1815年3月16日〜1839年4月19日)が成立した。


1815年6月9日にネーデルラント連合王国は、旧ネーデルラント連邦共和国領を回復し、オーストリアから南ネーデルラント(旧ルクセンブルク公領の大部分を含む)を獲得した(ウィーン議定書)。なお、旧ルクセンブルク公領はルクセンブルク大公国とされてドイツ連邦にも加盟し、ネーデルラント王(オランダ王)が大公を兼ねることになった。

 

1815.6.9 イギリスのマルタ諸島獲得

1815年6月9日にイギリスはフランスからマルタ島を獲得した(ウィーン議定書)。ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)中に占領しており、イギリス領マルタ植民地(1800年〜1964年9月21日)が成立していたが、正式に割譲した。


マルタ島は、ジブラルタル(1713年4月11日にスペインから獲得(ユトレヒト条約(スペイン継承戦争(1701年〜1714年)の講和条約))、キプロス島(ベルリン会議(1878年6月13日〜7月13日)でオスマン帝国から租借)と共に、イギリス艦隊が地中海の制海権を維持するための拠点となった。


現在でも、ジブラルタルはイギリスの海外領土でイギリス海軍のジブラルタル戦隊が駐留し、キプロス共和国(1960年8月16日独立)にはイギリス主権基地領域アクロティリおよびデケリアがありイギリスの統治権が及ぶ。マルタは1964年9月21日に独立し、イギリス連邦加盟のマルタ共和国(1974年12月13日〜)からは1979年にイギリス軍が撤退している。


1815.6.9 イギリスの保護国イオニア諸島合衆国の成立

1815年6月9日にイギリスはイオニア諸島の宗主権を獲得した(ウィーン議定書)。1817年8月26日にメートランド律令が批准され、イオニア諸島合衆国(1815年6月9日〜1864年5月28日)の法的地位が体系化された。


イギリスの保護国であったイオニア諸島合衆国(1815年6月9日〜1864年5月28日)は、1864年3月29日にイギリス・ギリシャ・フランス・ロシアが合意してギリシャへ譲渡されることとなり、同年5月28日にギリシャに併合された。


イオニア諸島は、ギリシャ西部のイオニア海に位置し、ヴェネツィア共和国(697年〜1797年10月18日)の領地だった。しかし、ヴェネツィア共和国はフランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)中のカンポ・フォルミオ条約(1797年10月18日)で滅亡してしまっていた。

 

1815.6.9 ロシアの保護国フィンランド大公国の承認

1815年6月9日にロシア皇帝が大公を兼ねるフィンランド大公国は承認された(ウィーン議定書)。スウェーデンもナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)の戦勝国ではあったが、ロシアからフィンランドは返還されなかった。


1809年9月17日に、フレデリクスハムンの和約(第二次ロシア・スウェーデン戦争(1808年2月〜1809年9月17日)の講和条約)によりフィンランド大公国(1809年9月17日〜1917年12月6日ロシアから独立)は成立していた。フィンランドは、ロシアの保護国としてではあったが、初めて国家の形を成してウィーン体制を迎えることになった。


1815.6.9 ワルシャワ公国の消滅(第四次ポーランド分割)

1815年6月9日に、ワルシャワ公国(1807年7月9日〜1815年6月9日)の領地の大部分をポーランド立憲王国としてロシア皇帝が王を兼ね、領地の西部をポズナン大公国としてプロイセン王が大公を兼ね、南部の小さな領地をクラクフ共和国としてロシア・プロシア・オーストリア共同の保護国とした(ウィーン議定書)。


ワルシャワ公国は領土をすべて失って消滅した(第四次ポーランド分割)。

 

1815.6.9 スイス連邦の永世中立国化

1815年6月9日にスイス連邦の独立と永世中立国化が確認された(ウィーン議定書)。


1798年4月12日に衛星国家ヘルヴェティア共和国(1798年4月12日〜1803年2月19日)の建国が宣言されて、スイス連邦(1291年8月1日誓約同盟〜1648年10月24日ウェストファリア条約〜)の盟約者団は崩壊したが、1803年2月19日にナポレオン・ボナパルトの仲裁によって盟約者団が復活していた。

 

1815.6.9 プロシアのスウェーデン領ポメラニア獲得

1815年6月9日にプロシアはスウェーデン領ポメラニアを獲得した(ウィーン議定書)。唯一の同盟国としてフランスと共に敗戦したデンマーク=ノルウェーの権利は無視される形になった。


スウェーデン領ポメラニアは、デンマーク=ノルウェーがノルウェー(ただし、アイスランド、グリーンランド、フェロー諸島は除く)をスウェーデンに割譲するのと交換に、スウェーデンがデンマーク=ノルウェーに割譲することに合意していた(1814年1月14日キール条約)ものだった。


1815.6.9 プロシアのラインラント獲得

1815年6月9日にプロシアはラインラントを獲得した(ウィーン議定書)。地下資源とライン川の物流に恵まれたライン川西岸(ラインラント)は、ドイツ第二帝国において工業地帯として発展することになる。


フランスは、1795年4月5日にプロシアにラインラントの領有を認めさせ(バーゼル条約)、1801年2月9日にオーストリアにラインラント併合を認めさせて(リュネヴィルの和約)、領有していた。

 

1815.6.8 オーストリアを盟主とするドイツ連邦の復活

1815年6月8日にオーストリア帝国(ハプスブルク家)を盟主とするドイツ連邦(1815年6月8日〜1866年8月23日)が復活した。


1805年12月26日にオーストリアがフランスと講和(プレスブルクの和約)した翌年の1806年7月12日に神聖ローマ帝国内のすべてのドイツ諸侯が離脱してフランスと同盟した(ライン同盟、ナポレオン・ボナパルトが盟主、事実上の保護国化)ため、同年8月6日にフランツ2世は神聖ローマ帝国(962年〜)の解散を表明していた。


1815.6.9 オーストリアのイストリア・ダルマチア獲得

1815年6月9日にオーストリアは、旧ヴェネツィア共和国(697年〜1797年10月18日)領地だったイストリア・ダルマチアを獲得した(ウィーン議定書)。


1797年10月18日にオーストリアはフランスと講和し、北イタリアにおいては、チザルピーナ共和国の独立を認めたうえで、ロンバルディアを割譲し、かつヴェネツィア共和国(697年〜1797年10月18日)の領地を分割していた。分割したヴェネツィア共和国の領地のうちヴェネツィア・イストリア・ダルマチアはオーストリアに割譲されていた(カンポ・フォルミオ条約)。


1805年12月26日にオーストリアはフランスと講和し、旧ヴェネツィア共和国領地について、オーストリアにイストリア・ダルマチアを割譲し、イタリア王国を承認して同国にヴェネツィアを割譲していた(プレスブルクの和約)。


1815.6.9 オーストリアの保護国ロンバルド=ヴェネト王国の建国

1815年6月9日にロンバルド=ヴェネト王国が建国されてオーストリア皇帝が王を兼ねた(ウィーン議定書)。ロンバルド=ヴェネト王国の領地は、旧ヴェネツィア共和国(697年〜1797年10月18日)領地のヴェネツィアとオーストリアが回復した旧領ロンバルディアを併せたものとされた。


1797年10月18日にオーストリアはフランスと講和し、北イタリアにおいては、チザルピーナ共和国の独立を認めたうえで、ロンバルディアを割譲し、かつヴェネツィア共和国(697年〜1797年10月18日)の領地を分割していた。分割したヴェネツィア共和国の領地のうちヴェネツィア・イストリア・ダルマチアはオーストリアに割譲されていた。


1805年12月26日にオーストリアはフランスと講和し、旧ヴェネツィア共和国領地について、オーストリアにイストリア・ダルマチアを割譲し、イタリア王国を承認して同国にヴェネツィアを割譲していた(プレスブルクの和約)。

 

1815.6.9 サルデーニャ王国の旧ジェノヴァ共和国領獲得

1815年6月9日にサルデーニャ王国(サヴォイア家、後のイタリア王国)は、大陸領土のピエモンテを回復したうえ、旧ジェノヴァ共和国(1005年〜1797年6月14日)領を獲得した(ウィーン議定書)。


第一次イタリア遠征(1796年3月27日〜1797年10月18日カンポ・フォルミオ条約)中の1797年5月にナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍はジェノヴァを占領し、6月14日にリグリア共和国(1797年6月14日〜1805年6月4日)を建国して、ジェノヴァ共和国(1005年〜1797年6月14日)は滅亡していた。

 

1814.1.14 キール条約によりスウェーデンがノルウェー獲得

1807年からフランスと同盟していたデンマーク=ノルウェーに対し、1813年12月にスウェーデン軍がユトレヒト半島のホルシュタインに侵攻した。


1814年1月14日にスウェーデンの勝利で講和し、デンマーク=ノルウェーはノルウェーを割譲した(キール条約)。ただし、ノルウェー領であったアイスランド、グリーンランド、フェロー諸島はデンマークの領土として残された。またスウェーデンは交換に、スウェーデン領ポメラニアをデンマーク=ノルウェーに割譲することを約した。


しかし、ウィーン議定書(1815年6月9日)によりスウェーデン領ポメラニアはプロシアが獲得することとなってしまった。

 

1815.6.9 フランスのセネガル獲得

1815年6月9日に敗戦国でありながら、フランス復古王政(1814年4月6日〜1830年7月29日)は、セネガルのサン=ルイ島およびゴレ島を獲得した(ウィーン議定書)。


それぞれから都市サン=ルイとダカールが建設・開発されて、後のフランス領西アフリカ(1895年10月27日成立)の拠点となった。


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