イギリスの海洋覇権①
- 四々縦七
- 2022年9月25日
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更新日:2022年9月30日
イギリスの覇権について、特に制海権に注目してまとめる。まずは、フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)。
①フランス革命戦争[FRW]
1795年1月19日にバタヴィア共和国が成立すると、イギリスはバタヴィア共和国の本土および植民地で攻勢をかけた。翌1796年にはイギリス領セイロンを成立させ、1799年にはロシアと共にバタヴィア艦隊の鹵獲に成功した。
また、フランスのエジプト遠征(1798年7月3日〜1801年)に際しては、イギリス領マルタ植民地を成立させ、地中海に進出すると共にフランス艦隊の制海権を奪って、オスマン帝国と共に勝利した。
【ネーデルラント連邦共和国の滅亡】
フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)がはじまった翌年1793年2月1日にフランスはオランダとイギリスに宣戦布告した。1794年にはフランス軍はオランダ領内にも侵攻し、オランダ軍とイギリス遠征軍への攻撃を開始した。
1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国が成立して、ネーデルラント連邦共和国が滅亡した。2月9日にはイギリスとバタヴィア共和国は戦争状態となり、7月にイギリス領インド帝国(1858年8月2日〜1947年8月15日)駐留のイギリス軍がセイロン島に侵攻した。8月にトリンコマリーを制圧し、1796年2月にコロンボを制圧して、バタヴィア共和国の全拠点の制圧を完了した。
また、1799年8月27日にイギリス・ロシア連合艦隊がバタヴィア共和国に侵攻した。フランス・バタヴィア連合軍の勝利で、11月19日にはイギリス・ロシア連合艦隊は撤退したが、バタヴィア艦隊(旧ネーデルラント連邦共和国艦隊)の大部分の鹵獲に成功したため、イギリスの当初の目的は達せられた。イギリスの制海権確保にとって、フランスが旧ネーデルラント連邦共和国の艦隊を入手することを防ぐのは最優先事項だった。
【フランスのエジプト遠征】
フランスのエジプト遠征(1798年7月3日〜1801年)に際しては、イギリス艦隊は1798年8月1日にアブキール湾に停泊していたフランス艦隊を発見・攻撃した。また、エジプト遠征の途上でフランスはマルタ諸島を征服していたが、マルタ島住民はイギリス・ポルトガル・ナポリ王国の支援を受けて約2年間にわたってフランス守備隊を包囲し、1800年にフランス守備隊はイギリス軍に降伏した(マルタ包囲戦)。
イギリス領マルタ植民地(1800年〜1964年9月21日)が成立し、地中海の制海権を左右する要衝がイギリス艦隊の拠点となった。また、フランスのエジプト遠征軍は補給路を断たれることになった。

1795.1.19 FRW 衛星国家バタヴィア共和国の成立【ネーデルラント連邦共和国の滅亡】
フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)がはじまった翌年1793年2月1日にフランスはオランダとイギリスに宣戦布告した。
1793年末からフランスが反攻に転じ、フランス軍は領内からオーストリア軍・プロシア軍を撤退させたうえ、オーストリア領ネーデルラントとラインラントを占領した。1794年にはフランス軍はオランダ領内にも侵攻し、オランダ軍とイギリス遠征軍への攻撃を開始した。
1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立して、ネーデルラント連邦共和国(1579年1月23日ユトレヒト同盟〜1648年10月24日ウェストファリア条約〜1795年1月19日)が滅亡した。1795年5月16日にバタヴィア共和国とフランスは相互防衛同盟を結成し、バタヴィアはフランスに低利子の大借款を提供した(ハーグ条約)。
1806年6月5日にフランスの衛星国家ホラント王国(1806年6月5日〜1810年7月9日)に移行し、1810年7月9日にフランス第一帝政(1804年5月18日帝政宣言〜1814年4月4日NB退位、1815年3月20日〜6月22日NB百日天下)に併合された。
なお、ネーデルラント連邦共和国と共に第一次対仏大同盟に参加していたイギリスは、バタヴィア共和国が成立するとすぐに、ケープ植民地やセイロン島などオランダ東インド会社の海外植民地への侵攻を開始した。
1796 FRW イギリス領セイロンの成立
1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立して、ネーデルラント連邦共和国(1579年1月23日〜1795年1月19日)が滅亡した。2月9日にはイギリスとバタヴィア共和国は戦争状態となり、イギリスはケープ植民地などオランダ東インド会社の海外植民地への侵攻を開始した。
1795年7月にイギリス領インド帝国(1858年8月2日〜1947年8月15日)駐留のイギリス軍がセイロン島に侵攻した。8月にトリンコマリーを制圧し、1796年2月にコロンボを制圧して、バタヴィア共和国の全拠点の制圧を完了した。
イギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)は、アミアンの和約(1802年3月25日)でもバタヴィア共和国への返還対象に含まれず、1815年6月9日に正式にイギリスに割譲された(ウィーン議定書)。
1799.8.27-11.19 FRW 英露艦隊のネーデルラント(オランダ)遠征
1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立した。イギリスの制海権確保にとって、フランスが旧ネーデルラント連邦共和国の艦隊を入手することを防ぐのは最優先事項だった。
1799年8月27日にイギリス・ロシア連合艦隊がバタヴィア共和国に侵攻した。フランス・バタヴィア連合軍の勝利で、11月19日にはイギリス・ロシア連合艦隊は撤退したが、バタヴィア艦隊(旧ネーデルラント連邦共和国艦隊)の大部分の鹵獲に成功したため、イギリスの当初の目的は達せられた。
1798.7.3-1801 FRW/NBW フランスのエジプト遠征
フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)の後半、フランス第一共和政(1792年9月21日〜1804年5月18日)はエジプトを支配下に収めて、対仏大同盟を主導するイギリスのインド植民地との連絡を絶とうとした。
ナポレオン・ボナパルトが率いるフランス軍は、ラシュタット会議(1798年1月19日〜1799年3月21日)開催中の1798年7月3日にエジプトに上陸すると、アレクサンドリア、カイロを陥落させた。しかし、8月1日にイギリス艦隊によってアブキール湾に停泊していたフランス艦隊が発見・攻撃され、大敗した。地中海の制海権を失ったフランス軍は補給を断たれてしまった。当然、オスマン帝国も第二次対仏大同盟(1798年12月24日〜1801年2月9日リュネヴィルの和約)に参加した。
ナポレオン・ボナパルトは、シリア攻略を狙ったがアッコ包囲戦(1799年3月20日〜5月21日)に敗北して失敗し、アブキールの戦い(1799年7月25日)でオスマン軍に大勝したものの、8月22日に帰国するためにエジプトを脱出した。残されたフランス軍が1801年に降伏して、この戦争(フランスのエジプト遠征(Expédition d'Égypte)1798年7月3日〜1801年)はイギリスとオスマン帝国の勝利に終わった。
フランス軍撤退後のエジプトは混乱し、1805年5月17日にムハンマド・アリーが総督に就任して事実上の支配が始まった(ムハンマド・アリー朝(1805.5.17-1922.2.28-1953.6.18))。
1798-1800 FRW/NBW マルタ包囲戦・イギリス領マルタ植民地の成立
フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)終盤のフランスのマルタ征服(1798年6月10日〜12日)によりフランスによるマルタ諸島の占領統治がはじまったが、数ヶ月のうちにマルタ島住民による反乱が起きた。
マルタ島住民は、イギリス・ポルトガル・ナポリ王国の支援を受けて、約2年間にわたってフランス守備隊を包囲し、ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)がはじまって間もない1800年にフランス守備隊はイギリス軍に降伏した。
これによりイギリス領マルタ植民地(1800年〜1964年9月21日)が成立し、地中海の制海権を左右する要衝がイギリス艦隊の拠点となった。また、フランスのエジプト遠征軍は補給路を断たれることになった。
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