イギリスの海洋覇権②
- 四々縦七
- 2022年9月25日
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イギリスの覇権について、特に制海権に注目してまとめる。次に、ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)。
②ナポレオン戦争[NBW]
1802年3月25日にイギリスはフランスと一時的に講和した(アミアンの和約)が、1803年5月16日には再度フランスへ宣戦布告した。1805年10月21日にスペインのトラファルガー岬の沖でイギリス艦隊がフランス・スペイン連合艦隊を壊滅させ(トラファルガーの海戦)て、フランス軍のイギリス本土上陸の芽を摘んだ。
イギリスは、エジプト遠征こそ失敗したが、イギリス領セイロンとイギリス領ケープ植民地を獲得し、マルタ諸島を正式に獲得しイオニア諸島を保護国化して地中海の制海権を強化することに成功した。
【コペンハーゲンの海戦】
ロシア、プロシア、デンマーク=ノルウェー、スウェーデンが第二次武装中立同盟(1800年〜1801年4月2日)を結成すると、1801年4月2日にイギリス艦隊がデンマーク=ノルウェー二重王国艦隊の艦船15隻を破壊・捕獲した(コペンハーゲンの海戦)。
デンマーク=ノルウェー二重王国は第二次武装中立同盟から脱退し、当該同盟も崩壊した。イギリスの制海権確保にとって、フランスがデンマーク=ノルウェー二重王国艦隊を入手することを防ぐのは最優先事項だった。
【アミアンの和約,トラファルガーの海戦】
1802年3月25日にイギリスはフランスと一時的に講和し、イギリス領セイロンは承認された(アミアンの和約)が、1803年5月16日にイギリスはアミアンの和約を破棄して再度フランスへ宣戦布告した。
1805年10月21日にスペインのトラファルガー岬の沖でイギリス艦隊がフランス・スペイン連合艦隊を壊滅させ(トラファルガーの海戦)、1806年にイギリス領ケープ植民地を成立させ、1807年9月2日から5日にかけてイギリス艦隊がコペンハーゲン市街地を砲撃した(コペンハーゲン砲撃)して10月中にデンマーク=ノルウェー二重王国艦隊の艦船を没収した。
また、1807年3月16日にイギリス軍はエジプトに上陸してアレクサンドリアを陥落させたが、ムハンマド・アリー率いるエジプト軍に反撃されて撤退した(イギリスのエジプト遠征)。
【ロンドン条約,ウィーン議定書】
1814年8月13日にイギリスは、ネーデルラント連合公国返還する代わりに、イギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)とイギリス領ケープ植民地(1806年〜1910年5月31日)を承認させた(ロンドン条約)。
1815年3月2日にイギリスはキャンディ王国(1469年〜1815年3月2日)を保護国化し(キャンディ条約)、イギリスの植民地統治がセイロン島全域に及ぶようになった。
1815年6月9日にイギリスは正式に、オランダからセイロン島およびケープ植民地を、フランスからマルタ諸島を獲得した。加えて、イオニア諸島の宗主権も獲得した(ウィーン議定書)。

1800-1801.4.2 NBW 第二次武装中立同盟
フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)終盤のフランスのマルタ征服(1798年6月10日〜12日)と、直後にはじまったマルタ包囲戦(1798年〜1800年)の結果、イギリスによるマルタ諸島の占領統治がはじまった。地中海の制海権を左右する要衝がイギリス艦隊の拠点となったことは、地中海を含むヨーロッパの通商環境における大きな変化だった。
イギリスのマルタ諸島占領(1800年〜)に対して、ロシア、プロシア、デンマーク=ノルウェー、スウェーデンが反対し、1800年中に第二次武装中立同盟(Second League of Armed Neutrality)を結成した。
第二次武装中立同盟(1800年〜1801年4月2日)が原因となって、イギリスとデンマーク=ノルウェーは対立し、1807年にはデンマーク=ノルウェーがフランスと同盟することになる。ナポレオン・ボナパルトのエジプト遠征も、マルタ征服も失敗に終わったが、意外な形で同盟国を獲得することにつながったわけだ。
1801.4.2 NBW コペンハーゲンの海戦
イギリスのマルタ諸島占領(1800年〜)に反対して、ロシア、プロシア、デンマーク=ノルウェー、スウェーデンが第二次武装中立同盟(1800年〜1801年4月2日)を結成した。これが引き金となって、1801年4月2日にイギリス艦隊がデンマーク=ノルウェー二重王国艦隊の艦船15隻を破壊・捕獲した(コペンハーゲンの海戦(First Battle of Copenhagen))。
デンマーク=ノルウェー二重王国は第二次武装中立同盟(1800年〜1801年)から脱退し、当該同盟も崩壊した。イギリスの制海権確保にとって、フランスがデンマーク=ノルウェー二重王国艦隊を入手することを防ぐのは最優先事項だった。
1802.3.25-1803.5.16 NBW アミアンの和約【英仏講和】
1802年3月25日にイギリスもフランスと講和していた(アミアンの和約)が、講和の取決めはほとんど守られなかった。
ただし、1796年までにセイロン島のオランダ全拠点を制圧して成立していたイギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)はバタヴィア共和国への返還対象に含まれず、事実上イギリスの植民地として認められた。
1803年5月16日には、イギリスはアミアンの和約(1802年3月25日〜1803年5月16日)を破棄して再度フランスへ宣戦布告した。【第三次対仏大同盟:イギリス・オーストリア・ナポリ王国・ロシア・スウェーデン(1805年8月9日に参加);ポルトガル・サルデーニャ王国 ※スペインが1796年8月19日にフランスと同盟済み ※プロシアは1795年4月5日より中立維持】
1805.10.21 NBW トラファルガーの海戦【仏西連合艦隊の壊滅】
1803年5月16日の宣戦布告以降ずっとイギリスはフランス軍上陸の脅威にさらされていた。しかし、1805年10月21日にスペインのトラファルガー岬の沖で、イギリス艦隊がフランス・スペイン連合艦隊を壊滅させた(トラファルガーの海戦)。
この勝利でイギリスの制海権は万全となり、フランス軍のイギリス本土上陸のおそれは極めて小さくなった。
ロンドンのトラファルガー広場はこの戦勝を記念して造られ、ホレーショ・ネルソン提督の記念碑も建てられている。ネルソン提督はこの海戦で戦死したが、彼こそがイギリスの英雄であり、彼が同戦で掲げた信号文"England expects that every man will do his duty"が有名。
1806 NBW イギリス領ケープ植民地の成立
1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立して、ネーデルラント連邦共和国(1579年1月23日〜1795年1月19日)が滅亡した。2月9日にはイギリスとバタヴィア共和国は戦争状態となり、イギリスはケープ植民地やセイロン島などオランダ東インド会社の海外植民地への侵攻を開始した。
1795年中にイギリス軍はケープ植民地を制圧・占領していたが、1802年3月25日にイギリスとフランスが講和し、ケープ植民地をバタヴィア共和国に返還していた(アミアンの和約)。
しかし、1803年5月16日にイギリスはアミアンの和約を破棄して再度フランスへ宣戦布告し、ケープ植民地についても1806年にブラーウベルグの戦い(Battle of Blaauwberg、1806年1月8日〜18日)に勝利したイギリス軍により再占領されて、イギリス領ケープ植民地(1806年〜1910年5月31日)が成立した。
1807.2.19-1809.1.5 NBW 英土戦争, ダーダネルス条約
ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)のなか、アウステルリッツの戦い(1805年12月2日)でオーストリア・ロシア連合軍がフランス軍に敗れたこともあり、第二次対仏大同盟(1798年〜1801年2月9日リュネヴィルの和約)に参加していたオスマン帝国は、1806年2月にフランスと講和(フランスは第一次セルビア蜂起の鎮圧に協力することを約束)した。
1807年2月19日にイギリス艦隊がダーダネルス海峡に侵攻してマルマラ海でオスマン帝国艦隊を攻撃したが、砲台からの反撃を受けて3月3日には地中海まで撤退した。また、3月16日にイギリス軍はエジプトに上陸してアレクサンドリアを陥落させたが、ムハンマド・アリー率いるエジプト軍に反撃されて撤退した(イギリスのエジプト遠征(Alexandria expedition of 1807))。
この戦争(英土戦争(1807年2月19日〜1809年1月5日))はオスマン帝国の勝利に終わり、1809年1月5日に講和した。イギリスは艦隊と武器供与によりオスマン帝国がフランスに対して独立を維持できるよう約束した(ダーダネルス条約)。
1807.9.2-9.5 NBW コペンハーゲン砲撃【デンマーク=ノルウェーが仏と同盟】
1806年11月21日にフランスが大陸封鎖令を発令すると、イギリスはデンマーク=ノルウェー二重王国艦隊の引渡しを条件としてデンマーク=ノルウェー二重王国に同盟を持ち掛けた。デンマーク=ノルウェー二重王国がこれを拒絶すると、1807年9月2日から5日にかけてイギリス艦隊がコペンハーゲン市街地を砲撃した(コペンハーゲン砲撃(Second Battle of Copenhagen))。
デンマーク=ノルウェー二重王国は9月7日に降伏し、10月中にイギリス艦隊はデンマーク=ノルウェー二重王国艦隊の艦船を没収して撤退した。
デンマーク=ノルウェー二重王国はこれ以上の中立政策は採り得ず、同年中にフランスと同盟関係を結んだ。
1814.8.13 NBW ロンドン条約【英蘭交渉】
1814年8月13日にイギリスはネーデルラント連合公国(ネーデルラント連合王国(1815年3月16日〜1839年4月19日)の前身)に、オランダ領東インドをネーデルラント(オランダ)に返還することに合意した(ロンドン条約)。
また、ネーデルラント連合公国はイギリスのセイロン島とケープ植民地の領有を確認し、イギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)とイギリス領ケープ植民地(1806年〜1910年5月31日)を承認した。
1815.3.2 NBW キャンディ王国の保護国化, イギリス領セイロンへの組み入れ
1815年3月2日にイギリスはキャンディ王国(1469年〜1815年3月2日)を保護国化した(キャンディ条約)。
キャンディ王国の領地もイギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)に組み込まれ、イギリスの植民地統治がセイロン島全域に及ぶようになった。
フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)中の1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立し、同年7月にイギリス領インド帝国(1858年8月2日〜1947年8月15日)駐留のイギリス軍がセイロン島に侵攻・占領して、イギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)が成立していた。
1815.6.9 NBW イギリスのセイロン島獲得
1815年6月9日にイギリスはオランダからセイロン島を獲得した(ウィーン議定書)。
フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)中の1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立し、同年7月にイギリス領インド帝国(1858年8月2日〜1947年8月15日)駐留のイギリス軍がセイロン島に侵攻・占領して、イギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)が成立しており、1815年3月2日にイギリスの植民地統治は全域に及んでいた(キャンディ条約)ものを、正式に割譲した。
イギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)は、アミアンの和約(1802年3月25日)でもバタヴィア共和国への返還対象に含まれていなかった。
1815.6.9 NBW イギリスのケープ植民地獲得
1815年6月9日にイギリスはオランダからケープ植民地を獲得した(ウィーン議定書)。
フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)中の1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立し、同年中にイギリス軍はケープ植民地を制圧・占領していたが、1802年3月25日にイギリスとフランスが講和し、ケープ植民地をバタヴィア共和国に返還していた(アミアンの和約)。
しかし、1803年5月16日にイギリスはアミアンの和約を破棄して再度フランスへ宣戦布告し、ケープ植民地についても1806年にブラーウベルグの戦い(Battle of Blaauwberg、1806年1月8日〜18日)に勝利したイギリス軍により再占領されて、イギリス領ケープ植民地(1806年〜1910年5月31日)が成立していたものを、正式に割譲した。
1815.6.9 NBW イギリスのマルタ諸島獲得
1815年6月9日にイギリスはフランスからマルタ島を獲得した(ウィーン議定書)。ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)中に占領しており、イギリス領マルタ植民地(1800年〜1964年9月21日)が成立していたが、正式に割譲した。
マルタ島は、ジブラルタル(1713年4月11日にスペインから獲得(ユトレヒト条約(スペイン継承戦争(1701年〜1714年)の講和条約))、キプロス島(ベルリン会議(1878年6月13日〜7月13日)でオスマン帝国から租借)と共に、イギリス艦隊が地中海の制海権を維持するための拠点となった。
現在でも、ジブラルタルはイギリスの海外領土でイギリス海軍のジブラルタル戦隊が駐留し、キプロス共和国(1960年8月16日独立)にはイギリス主権基地領域アクロティリおよびデケリアがありイギリスの統治権が及ぶ。マルタは1964年9月21日に独立し、イギリス連邦加盟のマルタ共和国(1974年12月13日〜)からは1979年にイギリス軍が撤退している。
1815.6.9 NBW イギリスの保護国イオニア諸島合衆国の成立
1815年6月9日にイギリスはイオニア諸島の宗主権を獲得した(ウィーン議定書)。1817年8月26日にメートランド律令が批准され、イオニア諸島合衆国(1815年6月9日〜1864年5月28日)の法的地位が体系化された。
イギリスの保護国であったイオニア諸島合衆国(1815年6月9日〜1864年5月28日)は、1864年3月29日にイギリス・ギリシャ・フランス・ロシアが合意してギリシャへ譲渡されることとなり、同年5月28日にギリシャに併合された。
イオニア諸島は、ギリシャ西部のイオニア海に位置し、ヴェネツィア共和国(697年〜1797年10月18日)の領地だった。しかし、ヴェネツィア共和国はフランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)中のカンポ・フォルミオ条約(1797年10月18日)で滅亡してしまっていた。
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