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イギリスの海洋覇権③

  • 執筆者の写真: 四々縦七
    四々縦七
  • 2022年9月30日
  • 読了時間: 11分

イギリスの覇権について、特に制海権に注目してまとめる。今回は、アメリカ革命戦争(ARW、1775年4月19日〜1783年9月3日)、フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)およびナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)中の戦争・条約なども含むネーデルラント(オランダ)との地政学をまとめる。


③オランダとの地政学

イギリスの海洋覇権の観点からすると、フランス革命戦争およびナポレオン戦争とは、ネーデルラント(オランダ)に対するリベンジであった。


具体的には、フランスによって滅亡させられたオランダから、イギリスはセイロン島とケープ植民地を獲得した。ナポレオン戦争後にはシンガポールを開港して、1824年3月17日にイギリスがマレー半島を、オランダがスマトラ島を領有するという形で植民地交換することで合意し(英蘭協約)、1826年にマラッカ海峡に面しているマレー半島のペナン・マラッカとシンガポール島を併せて、イギリス領海峡植民地を成立させた。


【アメリカ革命戦争 ARW】

アメリカ革命戦争中に、イギリスが対米海上封鎖のために中立国船舶の捕獲を宣言すると、1779年3月11日にロシア、スウェーデン、デンマーク=ノルウェーにより第一次武装中立同盟が結成された。


オランダが第一次武装中立同盟に参加することをおそれて、1780年12月にイギリスがオランダに宣戦布告して戦争が勃発した(第四次英蘭戦争)。1784年5月20日にイギリスの勝利で講和し、オランダはインドのナーガパッティナムを割譲し、オランダ領東インドにおける自由貿易権を認めさせられた(パリ条約)。


第一次武装中立同盟には、ロシア、スウェーデン、デンマーク=ノルウェーに加えて、プロシア、オーストリア、ポルトガル、オスマン帝国、ナポリ王国が参加したため、フランス、スペイン、オランダと交戦中だったイギリスは国際的に孤立した状態でアメリカ革命戦争後半を戦うこととなった。


【フランス革命戦争 FRW】

フランス革命戦争がはじまった翌年1793年2月1日にフランスはオランダとイギリスに宣戦布告した。1794年にはフランス軍はオランダ領内にも侵攻し、オランダ軍とイギリス遠征軍への攻撃を開始した。


1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国が成立してネーデルラント連邦共和国が滅亡すると、イギリスはすぐにケープ植民地やセイロン島などオランダ東インド会社の海外植民地への侵攻を開始した。7月にイギリス領インド帝国駐留のイギリス軍がセイロン島に侵攻し、1796年2月までにバタヴィア共和国の全拠点を制圧してイギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)を成立させた。


また、1799年8月27日にイギリス・ロシア連合艦隊がバタヴィア共和国に侵攻して、バタヴィア艦隊(旧ネーデルラント連邦共和国艦隊)の大部分の鹵獲に成功した。


【ナポレオン戦争 NBW】

イギリスは、1802年3月25日にイギリスは、アミアンの和約でイギリス領セイロンをフランスに事実上承認させ、1803年5月16日に再度フランスへ宣戦布告するとケープ植民地を再占領してイギリス領ケープ植民地(1806年〜1910年5月31日)を成立させた。


1814年8月13日にイギリスは、オランダ領東インドをオランダに返還する代わりに、イギリス領セイロンとイギリス領ケープ植民地を承認させた(ロンドン条約)。その上で、1815年6月9日にイギリスはオランダからセイロン島とケープ植民地を正式に獲得した(ウィーン議定書)。


【イギリス領海峡植民地の成立】

1819年2月6日にイギリスはシンガポールは開港し、1824年3月17日にイギリスがマレー半島を、オランダがスマトラ島を領有するという形で植民地交換することで合意した(英蘭協約)。また、イギリスはシンガポール島領有をオランダに承認させた。


1826年にイギリス東インド会社は、マラッカ海峡に面しているマレー半島のペナン・マラッカとシンガポール島を併せて、イギリス領海峡植民地(1826年〜1946年4月1日)を成立させた。

1779.3.11-1783.9.3 ARW 第一次武装中立同盟

アメリカ革命戦争(ARW、1775年4月19日〜1783年9月3日)中に、イギリスは対米海上封鎖のため、中立国船舶の捕獲を宣言した。これに対し1778年にスウェーデンが中立国船舶の保護を訴え、翌1779年3月11日にロシアのエカチェリーナ2世が中立国船舶の航行の自由を訴えると同時に武装中立同盟の結成を呼び掛けた。


ロシアと、ロシアの呼びかけに応えたスウェーデン、デンマーク=ノルウェーにより第一次武装中立同盟(First League of Armed Neutrality)が結成された。


1781年にはプロシア、オーストリア、ポルトガルが参加し、1782年にはオスマン帝国が、1783年にはナポリ王国が参加した。


イギリスはフランス、スペイン、オランダと交戦中であり、ロシア、スウェーデン、デンマーク=ノルウェー、プロシア、オーストリア、ポルトガル、オスマン帝国、ナポリ王国が第一次武装中立同盟(1779年3月11日〜1783年9月3日)に参加したため、国際的に孤立した状態でアメリカ革命戦争(ARW、1775年4月19日〜1783年9月3日)後半を戦うこととなった。


1780.12-1784.5.20 ARW 第四次英蘭戦争, パリ条約

オランダが第一次武装中立同盟(1779年3月11日〜1783年9月3日)に参加することをおそれて、1780年12月にイギリスがオランダに宣戦布告して戦争が勃発した(第四次英蘭戦争(1780年12月〜1784年5月20日パリ条約))。


オランダ艦隊はイギリス艦隊の敵ではなく、1784年5月20日にイギリスの勝利で講和し、オランダはインドのナーガパッティナムを割譲し、オランダ領東インドにおける自由貿易権を認めさせられた(パリ条約(Peace of Paris (1783)))。

 

1795.1.19 FRW 衛星国家バタヴィア共和国の成立【ネーデルラント連邦共和国の滅亡】

フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)がはじまった翌年1793年2月1日にフランスはオランダとイギリスに宣戦布告した。


1793年末からフランスが反攻に転じ、フランス軍は領内からオーストリア軍・プロシア軍を撤退させたうえ、オーストリア領ネーデルラントとラインラントを占領した。1794年にはフランス軍はオランダ領内にも侵攻し、オランダ軍とイギリス遠征軍への攻撃を開始した。


1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立して、ネーデルラント連邦共和国(1579年1月23日ユトレヒト同盟〜1648年10月24日ウェストファリア条約〜1795年1月19日)が滅亡した。1795年5月16日にバタヴィア共和国とフランスは相互防衛同盟を結成し、バタヴィアはフランスに低利子の大借款を提供した(ハーグ条約)。


1806年6月5日にフランスの衛星国家ホラント王国(1806年6月5日〜1810年7月9日)に移行し、1810年7月9日にフランス第一帝政(1804年5月18日帝政宣言〜1814年4月4日NB退位、1815年3月20日〜6月22日NB百日天下)に併合された。


なお、ネーデルラント連邦共和国と共に第一次対仏大同盟に参加していたイギリスは、バタヴィア共和国が成立するとすぐに、ケープ植民地やセイロン島などオランダ東インド会社の海外植民地への侵攻を開始した。


1796 FRW イギリス領セイロンの成立

1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立して、ネーデルラント連邦共和国(1579年1月23日〜1795年1月19日)が滅亡した。2月9日にはイギリスとバタヴィア共和国は戦争状態となり、イギリスはケープ植民地などオランダ東インド会社の海外植民地への侵攻を開始した。


1795年7月にイギリス領インド帝国(1858年8月2日〜1947年8月15日)駐留のイギリス軍がセイロン島に侵攻した。8月にトリンコマリーを制圧し、1796年2月にコロンボを制圧して、バタヴィア共和国の全拠点の制圧を完了した。


イギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)は、アミアンの和約(1802年3月25日)でもバタヴィア共和国への返還対象に含まれず、1815年6月9日に正式にイギリスに割譲された(ウィーン議定書)。


1799.8.27-11.19 FRW 英露艦隊のネーデルラント遠征

1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立した。イギリスの制海権確保にとって、フランスが旧ネーデルラント連邦共和国の艦隊を入手することを防ぐのは最優先事項だった。


1799年8月27日にイギリス・ロシア連合艦隊がバタヴィア共和国に侵攻した。フランス・バタヴィア連合軍の勝利で、11月19日にはイギリス・ロシア連合艦隊は撤退したが、バタヴィア艦隊(旧ネーデルラント連邦共和国艦隊)の大部分の鹵獲に成功したため、イギリスの当初の目的は達せられた。

 

1802.3.25-1803.5.16 NBW アミアンの和約【英仏講和】

1802年3月25日にイギリスもフランスと講和していた(アミアンの和約)が、講和の取決めはほとんど守られなかった。


ただし、1796年までにセイロン島のオランダ全拠点を制圧して成立していたイギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)はバタヴィア共和国への返還対象に含まれず、事実上イギリスの植民地として認められた。


1803年5月16日には、イギリスはアミアンの和約(1802年3月25日〜1803年5月16日)を破棄して再度フランスへ宣戦布告した。【第三次対仏大同盟:イギリス・オーストリア・ナポリ王国・ロシア・スウェーデン(1805年8月9日に参加);ポルトガル・サルデーニャ王国 ※スペインが1796年8月19日にフランスと同盟済み ※プロシアは1795年4月5日より中立維持


1806 NBW イギリス領ケープ植民地の成立

1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立して、ネーデルラント連邦共和国(1579年1月23日〜1795年1月19日)が滅亡した。2月9日にはイギリスとバタヴィア共和国は戦争状態となり、イギリスはケープ植民地やセイロン島などオランダ東インド会社の海外植民地への侵攻を開始した。


1795年中にイギリス軍はケープ植民地を制圧・占領していたが、1802年3月25日にイギリスとフランスが講和し、ケープ植民地をバタヴィア共和国に返還していた(アミアンの和約)。


しかし、1803年5月16日にイギリスはアミアンの和約を破棄して再度フランスへ宣戦布告し、ケープ植民地についても1806年にブラーウベルグの戦い(Battle of Blaauwberg、1806年1月8日〜18日)に勝利したイギリス軍により再占領されて、イギリス領ケープ植民地(1806年〜1910年5月31日)が成立した。


1814.8.13 NBW ロンドン条約【英蘭交渉】

1814年8月13日にイギリスはネーデルラント連合公国(ネーデルラント連合王国(1815年3月16日〜1839年4月19日)の前身)に、オランダ領東インドをネーデルラント(オランダ)に返還することに合意した(ロンドン条約)。


また、ネーデルラント連合公国はイギリスのセイロン島とケープ植民地の領有を確認し、イギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)とイギリス領ケープ植民地(1806年〜1910年5月31日)を承認した。


1815.3.2 NBW キャンディ王国の保護国化, イギリス領セイロンへの組み入れ

1815年3月2日にイギリスはキャンディ王国(1469年〜1815年3月2日)を保護国化した(キャンディ条約)。


キャンディ王国の領地もイギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)に組み込まれ、イギリスの植民地統治がセイロン島全域に及ぶようになった。


フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)中の1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立し、同年7月にイギリス領インド帝国(1858年8月2日〜1947年8月15日)駐留のイギリス軍がセイロン島に侵攻・占領して、イギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)が成立していた。


1815.6.9 NBW イギリスのセイロン島獲得

1815年6月9日にイギリスはオランダからセイロン島を獲得した(ウィーン議定書)。


フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)中の1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立し、同年7月にイギリス領インド帝国(1858年8月2日〜1947年8月15日)駐留のイギリス軍がセイロン島に侵攻・占領して、イギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)が成立しており、1815年3月2日にイギリスの植民地統治は全域に及んでいた(キャンディ条約)ものを、正式に割譲した。


イギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)は、アミアンの和約(1802年3月25日)でもバタヴィア共和国への返還対象に含まれていなかった。


1815.6.9 NBW イギリスのケープ植民地獲得

1815年6月9日にイギリスはオランダからケープ植民地を獲得した(ウィーン議定書)。


フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)中の1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立し、同年中にイギリス軍はケープ植民地を制圧・占領していたが、1802年3月25日にイギリスとフランスが講和し、ケープ植民地をバタヴィア共和国に返還していた(アミアンの和約)。


しかし、1803年5月16日にイギリスはアミアンの和約を破棄して再度フランスへ宣戦布告し、ケープ植民地についても1806年にブラーウベルグの戦い(Battle of Blaauwberg、1806年1月8日〜18日)に勝利したイギリス軍により再占領されて、イギリス領ケープ植民地(1806年〜1910年5月31日)が成立していたものを、正式に割譲した。

 

1819.2.6 イギリスによるシンガポール開港

1819年にトーマス・ラッフルズがジョホール・スルターン国(1528年〜現在)からシンガポール島を獲得した。1819年2月6日にシンガポールは開港した。


英蘭協約(1824年3月17日)によりイギリスのシンガポール島領有はオランダによっても承認された。


1824.3.17 英蘭協約

1824年3月17日にイギリスとネーデルラント連合王国(1815年3月16日〜1839年4月19日)は、オランダ領東インドに関連して、イギリスがマレー半島を、オランダがスマトラ島を領有するという形で植民地交換することで合意した(英蘭協約)。


1826 イギリス領海峡植民地の成立

1826年にイギリス東インド会社は、マラッカ海峡に面しているマレー半島のペナン・マラッカとシンガポール島を併せて、イギリス領海峡植民地(Straits Settlements、1826年〜1946年4月1日)を成立させた。


オランダ東インド会社との競争に敗れて一旦はインド植民地の運営に集中したイギリス東インド会社だったが、フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)中のフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)の成立を契機にして、オランダ領東インドに侵攻・占領していた。


ロンドン条約(1814年8月13日)でオランダ領東インドをネーデルラント連合公国(ネーデルラント連合王国(1815年3月16日〜1839年4月19日)の前身)に返還し、英蘭協約(1824年3月17日)でネーデルラント連合王国(1815年3月16日〜1839年4月19日)とイギリスがマレー半島を、オランダがスマトラ島を領有するという形で植民地交換し、そして1826年にイギリス領海峡植民地を成立させて、大清帝国(1616年後金の成立、1644年チャイナ地域の支配開始、1912年2月12日滅亡)との交易の要路であるマラッカ海峡の安全な通航を確立した。


なお、1886年にココス島とクリスマス島が海峡植民地に編入され、1906年にラブアン島が海峡植民地に編入された。また、1942年2月15日には日本軍によってシンガポールが陥落した。

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