1815.6.9 NBW イギリス🇬🇧#001 制海権の強化に成功
- 四々縦七
- 2022年5月23日
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1815年6月9日にイギリスはセイロン島、マルタ諸島、ケープ植民地およびイオニア諸島の宗主権を獲得した(ウィーン議定書)。
それぞれ1796年にイギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)、1800年にイギリス領マルタ植民地(1800年〜1964年9月21日)、1806年にイギリス領ケープ植民地(1806年〜1910年5月31日)が成立しており、これらを正式に割譲した。また、イオニア諸島合衆国(1815年6月9日〜1864年5月28日)を成立させ、イギリスの保護国とした。
1713年4月11日にイギリスはスペインからジブラルタルを獲得しており、マルタ諸島の獲得によりイギリスは地中海に進出した。これは地中海のイギリス艦隊の制海権を強化するもので、エジプトを経由したインド植民地へのルートの防衛力を強化することになった。また、ケープ植民地の獲得により、希望峰周りのインド航路を押さえることに成功した。
実際、ポスト・ナポレオン戦争の時代(ウィーン体制)を経て、英露グレートゲーム(1828年2月21日〜1907年8月31日)が戦われたわけだ。その史実こそが、イギリスとロシアはナポレオン戦争(1799年11月9日〜1815年11月20日)を生き残っただけでなく、国民国家のサバイバル・ゲームにおいてトップランナーとして躍り出る契機としたことを証明している。

【1796 FRW イギリス領セイロンの成立】
1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立して、ネーデルラント連邦共和国(1579年1月23日〜1795年1月19日)が滅亡した。2月9日にはイギリスとバタヴィア共和国は戦争状態となり、イギリスはケープ植民地などオランダ東インド会社の海外植民地への侵攻を開始した。
1795年7月にイギリス領インド帝国(1858年8月2日〜1947年8月15日)駐留のイギリス軍がセイロン島に侵攻した。8月にトリンコマリーを制圧し、1796年2月にコロンボを制圧して、バタヴィア共和国の全拠点の制圧を完了した。
イギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)は、アミアンの和約(1802年3月25日)でもバタヴィア共和国への返還対象に含まれず、1815年6月9日に正式にイギリスに割譲された(ウィーン議定書)。
【1798-1800 NBW マルタ包囲戦・イギリス領マルタ植民地の成立】
フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)終盤のフランスのマルタ征服(1798年6月10日〜12日)によりフランスによるマルタ諸島の占領統治がはじまったが、数ヶ月のうちにマルタ島住民による反乱が起きた。
マルタ島住民は、イギリス・ポルトガル・ナポリ王国の支援を受けて、約2年間にわたってフランス守備隊を包囲し、ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)がはじまって間もない1800年にフランス守備隊はイギリス軍に降伏した。
これによりイギリス領マルタ植民地(1800年〜1964年9月21日)が成立し、地中海の制海権を左右する要衝がイギリス艦隊の拠点となった。また、フランスのエジプト遠征軍は補給路を断たれることになった。
【1802.3.25-5.16 NBW アミアンの和約【英仏講和】】
1802年3月25日にイギリスもフランスと講和していた(アミアンの和約)が、講和の取決めはほとんど守られなかった。
ただし、1796年までにセイロン島のオランダ全拠点を制圧して成立していたイギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)はバタヴィア共和国への返還対象に含まれず、事実上イギリスの植民地として認められた。
1803年5月16日には、イギリスはアミアンの和約(1802年3月25日〜1803年5月16日)を破棄して再度フランスへ宣戦布告した。【第三次対仏大同盟:イギリス・オーストリア・ナポリ王国・ロシア・スウェーデン(1805年8月9日に参加);ポルトガル・サルデーニャ王国 ※スペインが1796年8月19日にフランスと同盟済み ※プロシアは1795年4月5日より中立維持】
【1806 NBW イギリス領ケープ植民地の成立】
1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立して、ネーデルラント連邦共和国(1579年1月23日〜1795年1月19日)が滅亡した。2月9日にはイギリスとバタヴィア共和国は戦争状態となり、イギリスはケープ植民地やセイロン島などオランダ東インド会社の海外植民地への侵攻を開始した。
1795年中にイギリス軍はケープ植民地を制圧・占領していたが、1802年3月25日にイギリスとフランスが講和し、ケープ植民地をバタヴィア共和国に返還していた(アミアンの和約)。
しかし、1803年5月16日にイギリスはアミアンの和約を破棄して再度フランスへ宣戦布告し、ケープ植民地についても1806年にブラーウベルグの戦い(Battle of Blaauwberg、1806年1月8日〜18日)に勝利したイギリス軍により再占領されて、イギリス領ケープ植民地(1806年〜1910年5月31日)が成立した。
【1814.8.13 NBW ロンドン条約【英蘭交渉】】
1814年8月13日にイギリスはネーデルラント連合公国(ネーデルラント連合王国(1815年3月16日〜1839年4月19日)の前身)に、オランダ領東インドをネーデルラント(オランダ)に返還することに合意した(ロンドン条約)。
また、ネーデルラント連合公国はイギリスのセイロン島とケープ植民地の領有を確認し、イギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)とイギリス領ケープ植民地(1806年〜1910年5月31日)を承認した。
【1815.3.2 NBW キャンディ王国の保護国化, イギリス領セイロンへの組み入れ】
1815年3月2日にイギリスはキャンディ王国(1469年〜1815年3月2日)を保護国化した(キャンディ条約)。
キャンディ王国の領地もイギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)に組み込まれ、イギリスの植民地統治がセイロン島全域に及ぶようになった。
フランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)中の1795年1月19日にフランスの衛星国家バタヴィア共和国(1795年1月19日〜1806年6月5日)が成立し、同年7月にイギリス領インド帝国(1858年8月2日〜1947年8月15日)駐留のイギリス軍がセイロン島に侵攻・占領して、イギリス領セイロン(1796年〜1948年2月4日)が成立していた。
【1815.6.9 NBW イギリスの保護国イオニア諸島合衆国の成立】
1815年6月9日にイギリスはイオニア諸島の宗主権を獲得した(ウィーン議定書)。1817年8月26日にメートランド律令が批准され、イオニア諸島合衆国(1815年6月9日〜1864年5月28日)の法的地位が体系化された。
イギリスの保護国であったイオニア諸島合衆国(1815年6月9日〜1864年5月28日)は、1864年3月29日にイギリス・ギリシャ・フランス・ロシアが合意してギリシャへ譲渡されることとなり、同年5月28日にギリシャに併合された。
イオニア諸島は、ギリシャ西部のイオニア海に位置し、ヴェネツィア共和国(697年〜1797年10月18日)の領地だった。しかし、ヴェネツィア共和国はフランス革命戦争(FRW、1792年4月20日〜1799年11月9日)中のカンポ・フォルミオ条約(1797年10月18日)で滅亡してしまっていた。
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