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ギリシャ共和国(王国) 1821.3.25-the present

  • 執筆者の写真: 四々縦七
    四々縦七
  • 2022年7月28日
  • 読了時間: 3分
【英露グレートゲーム(1828年2月21日〜1907年8月31日)】

1832年8月30日に、ギリシャはギリシャ独立戦争(1821年3月25日〜1832年8月30日)に勝利して、オスマン帝国から独立した。


独立宣言(1821年3月25日)した後、臨時政府を樹立(ギリシャ第一共和政)して戦っていたが、イギリス・フランス・ロシアの介入により、結局は英仏露の保護国としてのギリシャ王国として独立を達成することになった。


こうした独立の経緯からギリシャの政治体制は安定せず、共和政・王政復古・クーデターによる独裁体制・WWⅡ中の枢軸国による分割統治・イギリス軍による解放後の内戦と軍事政権などを経験することになった。


【第一次世界大戦(1914年7月28日〜1918年11月11日)】

To Come

  • ギリシャ第二共和政(1924年3月25日〜)

  • ギリシャ王国(1935年11月3日王政復古。ただし、1936年8月4日より八月四日体制(王国首相イオアニス・メタクサスによる独裁政権)〜)

【第二次世界大戦(1939年9月1日〜1945年9月2日)】

To Come

  • WWⅡ中のドイツ・イタリア・ブルガリアによる3分割占領(1941年4月27日〜)

  • ギリシャ王国(1944年11月4日ドイツ軍撤退により王政復古〜)

【米ソ冷戦(1945年2月4日〜1989年12月3日)】

To Come

  • 軍事政権(1967年4月21日〜1974年7月24日亡命していたコンスタンディノス・カラマンリスが帰国して新政権樹立)

  • ギリシャ第三共和政(1974年11月11日〜)

現在のギリシャの領土

現在のギリシャの領土は、東から反時計回りにトルコ、ブルガリア、北マケドニア、アルバニアと国境を接している。トルコとの間にエーゲ海を擁し、西にはイオニア海が広がる。

1821.3.25-1832.8.30 ギリシャ独立戦争, ロンドン議定書

1821年3月25日にギリシャが独立を宣言して、オスマン帝国との戦争(ギリシャ独立戦争(〜1832年8月30日)が勃発した。戦況は、当初はギリシャ優勢、ついでオスマン帝国優勢であった。しかし、イギリス・フランス復古王政(1814年4月6日〜1830年7月29日)・ロシアが介入し、1827年10月20日にギリシャのナヴァリノ湾での海戦で、英仏露連合艦隊がオスマン帝国艦隊に勝利(ナヴァリノの海戦)すると、派生してロシアとオスマン帝国の間で戦争が勃発してロシアが勝利し、オスマン帝国はギリシャ共和国の独立を承認させられた(露土戦争(1828年〜1829年9月14日エディルネ条約(アドリアノープル条約)))。


1830年にはイギリス・フランス復古王政(1814年4月6日〜1830年7月29日)・ロシアがギリシャ共和国の独立を承認した(1830年2月3日ロンドン議定書(1830 Protocol of London))が、英仏露はあくまで英仏露の保護国としてのギリシャの独立を承認しただけであった。


1832年になってイギリス・フランス七月王政(1830年8月9日〜1848年2月24日)・ロシアとオスマン帝国は、ギリシャ独立戦争(1821年3月25日〜1832年8月30日)の講和会議を開いた(1832年2月〜8月30日ロンドン会議)。このなかで、ギリシャ王国の設立を英仏露が決定(5月7日ロンドン会議(Convention of 7 May 1832 between Great Britain, France, Russia, and Bavaria))し、英仏露とオスマン帝国がオスマン帝国とギリシャ王国の国境を確定(コンスタンティノープル条約)して、ギリシャ王国の独立と国境確定を取り決めて講和条約が締結された(1832年8月30日ロンドン議定書(London Protocol of 30 August 1832))。


なお、当初のギリシャ優勢をオスマン帝国が挽回して優勢にまで転じた背景には、オスマン帝国の要請により、エジプト総督ムハンマド・アリーが率いるエジプト軍が参戦したという事情があった。これが、オスマン帝国に世襲統治権を認めさせて(1840年7月15日ロンドン条約)、ムハンマド・アリー朝(1805年5月17日〜1953年6月18日)が正式に成立する機会を与える端緒となった。

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