タイ王国(シャム王国) 1238-the present
- 四々縦七
- 2022年7月10日
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タイ王国(シャム王国)は、白人の植民地支配を受けることなく古代からつづく、数少ない非白人国家のひとつである。日本が『列強』入りした20世紀前半において、独立を保てていた非白人国家は、日本以外には3カ国しかない。タイ王国以外には、エチオピア(エチオピア帝国1270年〜1974年9月12日)とリベリア共和国(1847年7月26日〜)があるだけだ。
タイ王国は、1238年に成立したスコータイ朝にはじまると言われている。800年弱の長い歴史を誇る計算になる。スコータイ朝(1238年〜)、アユタヤ朝(1351年〜1767年)、トンブリー朝(1767年〜1782年4月6日)と王朝が代わり、トンブリー朝のタークシン王の部下のチャオプラヤー・マハーカサット・スックがタークシン王を処刑し、バンコクに遷都して、1782年4月6日に王位に就いた(ラーマ1世)ことで、チャクリー朝(1782年4月6日〜現在)が興った。
タイ王国(シャム王国)トンブリー朝 1767-1782.4.6
タイ王国(シャム王国)は、1238年に成立したスコータイ朝にはじまると言われている。
スコータイ朝(1238年〜)は、アユタヤ朝(1351年〜)に朝貢することになり、やがて併合されて消滅してしまった。アユタヤ朝も、1767年にビルマ王国コンバウン朝(1752年〜1886年)によって滅ぼされてしまった。
タークシン王がトンブリーに遷都してトンブリー朝(1767年〜1782年4月6日)を興したので、タイ王国(シャム王国)は、現代世界史の始まり(1775年4月19日)をトンブリー朝として迎えたことになる。
タークシン王の部下のチャオプラヤー・マハーカサット・スックがタークシン王を処刑し、1782年4月6日に王位に就いた(後のチャクリー朝ラーマ1世)ので、トンブリー朝は一代限りで滅亡してしまった。
タイ王国(シャム王国)チャクリー朝 1782.4.6-the present
【英露グレートゲーム(1828年2月21日〜1907年8月31日)】
植民地の国境を接することになったイギリスとフランス第三共和政(1870年9月4日〜1940年6月22日)は、1896年1月15日に、シャムとメーコーン上流域に関する英仏宣言を発表し、タイ王国を緩衝地帯とすることに合意・発表した
【ポスト英露グレートゲーム】
To Come
現在のタイ王国の領土
現在のタイ王国の領土は、インドシナ半島とマレー半島にまたがり、カンボジア・ラオス・ミャンマー・マレーシアと国境を接している。独立を保った歴史を反映しているのか、インドシナ半島とマレー半島に挟まれた海域はタイランド湾と呼ばれている。

1896.1.15 シャムとメーコーン上流域に関する英仏宣言
19世紀末の当時、タイ王国の西は、ビルマ(現在のミャンマー)がイギリスに敗れて(イギリス・ビルマ戦争 (英緬戦争))、イギリス領インド帝国(1858年8月2日〜1947年8月15日)の統治下に入っていた。東は、フランス第三共和政(1870年9月4日〜1940年6月22日)がベトナムを植民地化していた(後に、フランス領インドシナ(1887年10月17日〜1953年11月9日)に含まれる)。
タイ王国チャクリー王朝(1782年4月6日〜現在)の当時のラーマ5世(在位1868年10月1日〜1910年10月23日)は、イギリスにマレー半島の一部を割譲し、フランス第三共和政(1870年9月4日〜1940年6月22日)にはラオスとカンボジアを割譲(これにより、フランス領インドシナ(1887年10月17日〜1953年11月9日)が成立)することで、独立を保った。
こういった英仏の侵略とタイ王国の外交対応の結果、イギリス領インド帝国(1858年8月2日〜1947年8月15日)とフランス領インドシナ(1887年10月17日〜1953年11月9日)は、タイ王国の北部で国境を接することになったわけである。
植民地の国境を接することになったイギリスとフランス第三共和政(1870年9月4日〜1940年6月22日)は、1896年1月15日に、シャムとメーコーン上流域に関する英仏宣言(Declaration between Great Britain and France with regard to the Kingdom of Siam and other matters)を発表し、タイ王国を緩衝地帯とすることに合意・発表したのである。
タイ王国は、外交(もちろん領土を割譲することを外交と表現するべきかどうかは議論の余地があるだろうけれど…)により、『列強』間の緩衝地帯として独立を保つことに成功したのである。

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