1807.7.9 NBW プロシア王国🇩🇪#014 敗戦,首都陥落(ティルジットの和約)🇫🇷
- 四々縦七
- 2022年4月5日
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1807年7月9日にプロシア王国(ホーエンツォレルン家、のちのドイツ第二帝国)とフランスが講和した(ティルジットの和約)。プロシアは、エルベ川以西の領地と旧ポーランド領を割譲し、賠償金を課せらせ、賠償金支払完了までのフランス軍駐留を認めさせられた。
ティルジットの和約に基づいて、エルベ川以西の旧プロシア領にはフランスの衛星国家ウェストヴァーレン王国が建国され、プロシアの旧ポーランド領にはポーランドがワルシャワ公国という名称で復活した。
1806年10月14日にフランス軍はプロシア軍に壊滅的な打撃を与えて勝利し、10月25日にベルリンを制圧していた。1806年11月21日にベルリンで、ナポレオン・ボナパルトは大陸封鎖令を発令している。プロシア王は東プロシアに逃れてケーニヒスベルクを臨時首都としたところ、フランスもポーランドに進軍していた。
アイラウの戦い(1807年2月7日〜8日)でフランス軍はロシア・プロイセン連合軍に辛勝し、フリートラントの戦い(6月14日)でフランス軍はロシア軍に大打撃を与えて勝利していた。1807年6月16日にはフランス軍が臨時首都ケーニヒスベルクを占領し、プロシアは降伏した。
プロシアは10年と6ヶ月のあいだ中立を決め込んだ挙句、ようやく危機感を抱いて宣戦布告してみたら僅か8ヶ月で降伏まで追い込まれた計算になる。しかも、首都ベルリン陥落、臨時首都ケーニヒスベルク陥落、西も東も大幅に領土喪失、戦後もフランス軍駐留と、惨敗である。


画像出典:旅行のとも、ZenTech
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