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ルーマニア王国(公国) 1859.1.24-1947.12.30

  • 執筆者の写真: 四々縦七
    四々縦七
  • 2022年7月30日
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モルダヴィア(ルーマニア北東部)およびワラキア(ルーマニア南部)は、ロシアとオスマン帝国の戦争のたびに戦場となり、講和のたびに割譲・返還の対象とされた。ロシアの南下政策に対抗するオスマン帝国にとっての緩衝地であった。


【ナポレオン戦争(1799年11月9日〜1815年11月20日)】

ナポレオン戦争のなか、1806年2月にオスマン帝国はフランスと講和した。同年、ロシアがモルダヴィアおよびワラキアに侵攻したのに対し、オスマン帝国が宣戦布告して、戦争が勃発した(露土戦争(1806年〜1812年5月28日ブカレスト条約))。


1812年5月28日にオスマン帝国はロシアに敗北し、ロシアがドニエストル川からプルート川までの地域(ベッサラビア)を併合することを承認した(ブカレスト条約)。ロシアは占領していたモルダヴィアとワラキアから撤退した。


【英露グレートゲーム(1828年2月21日〜1907年8月31日)】

ギリシャ独立戦争(1821年3月25日ギリシャ独立宣言〜1832年8月30日ロンドン議定書)から派生して、露土戦争(1828年〜1829年9月14日エディルネ条約(アドリアノープル条約))が勃発した。


1829年9月14日にオスマン帝国はロシアに敗北し、ドナウ川河口域をロシアに割譲した(エディルネ条約(アドリアノープル条約)。また、オスマン帝国が賠償金の支払を終えるまでの間、モルダヴィアとワラキアをロシアが占領することを認めた。


1853年7月にモルダヴィア・ワラキアに進軍したロシア軍に対してオスマン帝国は撤退勧告を繰り返したが、最後通牒も無視されると1853年10月16日にドナウ川を渡河して攻撃を行いクリミア戦争(1853年10月16日〜1856年3月30日パリ条約)が勃発した。


1856年3月30日にロシアは英仏土伊同盟国(イギリス・フランス・オスマン帝国・サルデーニャ王国)に敗北し、モルダヴィア・ワラキアをオスマン帝国自治領として残したうえ、ドナウ川河口域をモルダヴィア公国に返還した。


ルーマニア公国(モルダヴィア・ワラキア連合公国) 1859.1.24-1881.3.15

【英露グレートゲーム(1828年2月21日〜1907年8月31日)】

アレクサンドル・ヨアン・クザが、1859年1月5日にモルダヴィア公に即位し、つづけて1月24日にワラキア公に即位して、モルダヴィア・ワラキア連合公国(1859年1月24日〜1881年3月15日)が成立した。


緩衝地としてオスマン帝国自治領として留め置かれたモルダヴィア・ワラキアだったが、クリミア戦争(1853年10月16日〜1856年3月30日パリ条約)によってオスマン帝国も疲弊していたため自治が進んだ。


1861年に国号をルーマニア公国に変更した。


1877年4月24日にロシアがオスマン帝国に宣戦布告して露土戦争(1877年4月24日〜1878年3月3日サン・ステファノ条約)が勃発すると、ルーマニア公国はロシア側で参戦して1877年5月9日にオスマン帝国からの独立を宣言した。


1878年3月3日にオスマン帝国はロシアに敗北してルーマニア公国(1859年1月24日〜)の独立を承認(サン・ステファノ条約)し、1878年7月13日に英墺露普土仏伊7カ国がルーマニア公国の独立を承認した(ベルリン条約)。


また、サン・ステファノ条約(1878年3月3日)でオスマン帝国はロシアにドニエストル川からプルート川までの地域(ベッサラビア)とドナウ川河口域を割譲していたが、ベルリン条約(1878年7月13日)でルーマニア公国はベッサラビア黒海沿岸部と交換にドナウ川河口域(北ドブロジャ)を獲得した。


ルーマニア王国 1881.3.15-1947.12.30

【英露グレートゲーム(1828年2月21日〜1907年8月31日)】

1881年3月15日にカロル1世がルーマニア王に即位して、ルーマニア王国(1881年3月15日〜1947年12月30日王制廃止)が成立した。


【第一次世界大戦(1914年7月28日〜1918年11月11日)】

To Come


【第二次世界大戦(1939年9月1日〜1945年9月2日)】

To Come

ルーマニアの国旗
ルーマニアの国旗

1804.2.14-1813.10.7 第一次セルビア蜂起

1804年2月14日に、カラジョルジェことジョルジェ・ペトロヴィチを指導者とする第一次セルビア蜂起(〜1813年10月7日、First Serbian Uprising(Serbian Revolution))が起こった。


並行して露土戦争(1806年〜)が行われており、セルビア人に対するロシアの支援がある間は良かったが、オスマン帝国がセルビア人に自治権を与えることを承認して戦争が終わる(1812年5月28日ブカレスト条約)と、オスマン帝国による報復が始まり蜂起は鎮圧されてしまった。


第一次セルビア蜂起(1804年2月14日〜1813年10月7日)は、オスマン帝国史上初めてのキリスト教徒による反乱だった。結果的に失敗してしまったもののバルカン半島における独立運動の象徴となった。


1806-1812.5.28 NBW 露土戦争, ブカレスト条約

ナポレオン戦争(NBW、1799年11月9日〜1815年11月20日)のなか、アウステルリッツの戦い(1805年12月2日)でオーストリア・ロシア連合軍がフランス軍に敗れたこともあり、第二次対仏大同盟(1798年〜1801年2月9日リュネヴィルの和約)に参加していたオスマン帝国は、1806年2月にフランスと講和(フランスは第一次セルビア蜂起の鎮圧に協力することを約束)した。


1806年にロシアがモルダヴィアおよびワラキアに侵攻したのに対し、オスマン帝国がボスポラス海峡・ダーダネルス海峡の商船の通行を禁じたうえ宣戦布告して、戦争が勃発した(露土戦争(1806年〜1812年5月28日))


当初オスマン帝国は優勢だったが、ロシアはフランスと講和(ティルジットの和約(1807年7月7日))して以降に形勢を立て直した。


フランスのロシア遠征のおそれが高まったこともあり1812年5月28日に、ロシアの勝利で講和した。オスマン帝国はロシアがドニエストル川からプルート川までの地域(ベッサラビア)を併合することとセルビア人に自治権を与えることを承認し、ロシアは占領していたモルダヴィアとワラキアから撤退した(ブカレスト条約)


1815.4.23-1817.7.26 第二次セルビア蜂起

1815年4月23日に、ミロシュ・オブレノヴィッチを指導者とする第二次セルビア蜂起(〜1817年7月26日、Second Serbian Uprising(Serbian Revolution))が起こった。オスマン帝国との交渉の結果、セルビアの自治権を認めさせ、ミロシュ・オブレノヴィッチにセルビア公の地位を認めさせた。ただし、オスマン帝国に年貢を収めることと、オスマン帝国軍守備隊がベルグレートに駐留すること(実際に1867年まで駐留した)が、自治権を認める条件だった。


1817年11月6日にミロシュ・オブレノヴィッチ1世がセルビア公に就任して、セルビア公国(1817年11月6日〜1882年3月6日)が成立した。同年に第一次セルビア蜂起(1804年2月14日〜1813年10月7日)を指導したカラジョルジェことジョルジェ・ペトロヴィチが帰国したが、暗殺された。


オスマン帝国が正式にセルビア公国の半独立を認めたのは1830年のことだった。前年に、エディルネ条約(アドリアノープル条約とも言う。露土戦争(1828年〜1829年9月14日)の講和条約)でロシアにセルビアの自治権を与えることを再確認させられていた。


1821.3.25-1832.8.30 ギリシャ独立戦争, ロンドン議定書

1821年3月25日にギリシャが独立を宣言して、オスマン帝国との戦争(ギリシャ独立戦争(〜1832年8月30日)が勃発した。戦況は、当初はギリシャ優勢、ついでオスマン帝国優勢であった。しかし、イギリス・フランス復古王政(1814年4月6日〜1830年7月29日)・ロシアが介入し、1827年10月20日にギリシャのナヴァリノ湾での海戦で、英仏露連合艦隊がオスマン帝国艦隊に勝利(ナヴァリノの海戦)すると、派生してロシアとオスマン帝国の間で戦争が勃発してロシアが勝利し、オスマン帝国はギリシャ共和国の独立を承認させられた(露土戦争(1828年〜1829年9月14日エディルネ条約(アドリアノープル条約)))


1830年にはイギリス・フランス復古王政(1814年4月6日〜1830年7月29日)・ロシアがギリシャ共和国の独立を承認した(1830年2月3日ロンドン議定書(1830 Protocol of London))が、英仏露はあくまで英仏露の保護国としてのギリシャの独立を承認しただけであった。


1832年になってイギリス・フランス七月王政(1830年8月9日〜1848年2月24日)・ロシアとオスマン帝国は、ギリシャ独立戦争(1821年3月25日〜1832年8月30日)の講和会議を開いた(1832年2月〜8月30日ロンドン会議)。このなかで、ギリシャ王国の設立を英仏露が決定(5月7日ロンドン会議(Convention of 7 May 1832 between Great Britain, France, Russia, and Bavaria))し、英仏露とオスマン帝国がオスマン帝国とギリシャ王国の国境を確定(コンスタンティノープル条約)して、ギリシャ王国の独立と国境確定を取り決めて講和条約が締結された(1832年8月30日ロンドン議定書(London Protocol of 30 August 1832))。


なお、当初のギリシャ優勢をオスマン帝国が挽回して優勢にまで転じた背景には、オスマン帝国の要請により、エジプト総督ムハンマド・アリーが率いるエジプト軍が参戦したという事情があった。これが、オスマン帝国に世襲統治権を認めさせて(1840年7月15日ロンドン条約)、ムハンマド・アリー朝(1805年5月17日〜1953年6月18日)が正式に成立する機会を与える端緒となった。


1828-1829.9.14 露土戦争, エディルネ条約(アドリアノープル条約)

ギリシャ独立戦争(1821年3月25日〜1832年8月30日)にイギリス・フランス・ロシアが介入し、1827年10月20日にギリシャのナヴァリノ湾での海戦で、英仏露連合艦隊がオスマン帝国艦隊に勝利(ナヴァリノの海戦)すると、オスマン帝国はロシア船舶のダーダネルス海峡通過を禁じたため、派生してロシアとオスマン帝国の間で戦争が勃発した(露土戦争(1828年〜1829年9月14日))


ロシアが勝利し、オスマン帝国はギリシャ共和国の独立を認めさせられた。また、オスマン帝国は黒海の東海岸をロシアに割譲し、南コーカサス地方(現在のジョージア・アゼルバイジャン・アルメニア3国の総称)のジョージアとアルメニアにあたる地域におけるロシアの主権を認めた。さらに、バルカン半島について、ドナウ川河口域をロシアに割譲し、モルダヴィア(ルーマニア北東部)とワラキア(ルーマニア南部)をロシアが占領することを認め、セルビアに自治権を与えることを改めて認めた(1829年9月14日エディルネ条約(アドリアノープル条約))。


セルビアに自治権を与えることについては、ブカレスト条約(1812年5月28日、露土戦争(1806年〜1812年5月28日)の講和条約)でオスマン帝国に承認させていたものを、改めて確認した。


1831.1.20-1833 ボスニア蜂起

1831年1月20日にボスニア蜂起(〜1833年、Great Bosnian Uprising)が起こった。オスマン帝国により蜂起は鎮圧され、ヘルツェゴビナ州がボスニア州から分離された。


1841.7.13 GG ロンドン海峡条約

1841年7月13日に、イギリス・ロシア・オーストリア・プロシアにフランス七月王政(1830年8月9日〜1848年2月24日)を加えた5カ国が、ロンドン条約(Convention of London of 1840、1840年7月15日)の内容を踏襲するロンドン海峡条約(London Straits Convention)を締結した。


1839年に勃発した第二次エジプト・トルコ戦争(Second Egyptian–Ottoman War、1839年〜1840年11月27日)に、イギリス・ロシア・オーストリア・プロシアは干渉して、ムハンマド・アリーとオスマン帝国の双方に講和するように圧力をかけた。


干渉に先立って、英露墺普4カ国は、ウンキャル・スケレッシ条約(1833年7月8日)を破棄してボスポラス海峡およびダーダネルス海峡の外国軍艦の通行を全面禁止にすることで合意していた(ロンドン条約(Convention of London of 1840、1840年7月15日))。


1853.10.16-1856.3.30 GG クリミア戦争, パリ条約

1852年3月13日にダニーロ1世がモンテネグロ公を自称してモンテネグロ公国を建国した。オスマン帝国がこれに反対すると、モンテネグロ公国軍がオスマン帝国軍に攻撃を仕掛けた。オスマン帝国が反撃して戦況が泥沼化すると、ロシアが和平交渉の仲介役となった。


フランスによる妨害などもあり和平交渉が決裂すると、ロシアとオスマン帝国は国交を断絶した。1853年7月にモルダヴィア・ワラキアに進軍したロシア軍に対してオスマン帝国は撤退勧告を繰り返したが、最後通牒も無視されると1853年10月16日にドナウ川を渡河して攻撃を行い戦争が勃発した(クリミア戦争(1853年10月16日〜1856年3月30日))。


1853年11月30日にロシア艦隊がアナトリア半島北岸の軍港シノープを急襲してオスマン艦隊に大勝すると、イギリスの世論が反ロシアに転じ、1854年3月28日にイギリスとフランス第二帝政(1851年12月2日〜1870年9月4日)がロシアに宣戦布告する事態を招いた。


バルカン半島では、ロシア軍がドナウ川を渡河して南下し、ギリシャの義勇兵が北上してマケドニアやブルガリアでロシアの援助を受けながら反乱を起こしたため、オスマン帝国軍が挟撃される事態となった。イギリスやフランスが圧力をかけて、ギリシャが義勇兵への支援を継続できなくなると各地の反乱は鎮圧され、オスマン帝国軍はロシア軍を再びドナウ川以北まで押し戻したが戦線は膠着した。


1855年9月11日に英仏土伊同盟軍(サルデーニャ王国も同盟軍側で参戦していた)がクリミア半島のセヴァストポリ(ロシアの黒海艦隊の基地)を陥落させる大きな勝利を挙げた(セヴァストポリ包囲戦(1854年9月28日〜1855年9月11日))が、直後にロシア軍に南コーカサスのカルス要塞を陥されるなど決定的な優勢に至れなかった。皇帝ナポレオン3世が国内世論によりフランス軍の撤兵を決めると、同盟軍側も戦争継続は困難となった。


1856年3月30日にオーストリアとプロシアの立会いのもと、英仏土伊同盟国が勝利して講和した(パリ条約(1856年3月30日)、露墺普英仏土伊が署名)。第一にボスポラス海峡およびダーダネルス海峡の外国軍艦の通行を全面禁止にすること(ロンドン海峡条約(1841年7月13日、第二次エジプト・トルコ戦争(1839年〜1840年11月27日)講和後にロンドン条約(1840年7月15日)を英露墺普仏で確認)を再確認したうえ、黒海を非武装化し、第二にモルダヴィア・ワラキアをオスマン帝国自治領として残したうえ、ロシアはドナウ川河口域(エディルネ条約(アドリアノープル条約、露土戦争(1828年〜1829年9月14日)の講和条約)でオスマン帝国がロシアに割譲)をモルダヴィア公国に返還し、さらに第三にオスマン帝国内の正教会信徒の保護権(キュチュク・カイナルジ条約(露土戦争(1768年〜1774年7月21日)の講和条約)でオスマン帝国が承認)を放棄した。


なお、この戦争(クリミア戦争(1853年10月16日〜1856年3月30日))は、バルト海や極東のカムチャツカ半島での戦闘も含んだ。パリ条約(1856年3月30日)により、バルト海のオーランド諸島が非武装地帯に指定された。


また、1859年1月24日にモルダヴィア・ワラキア連合公国(ルーマニア公国)が成立した。緩衝地としてオスマン帝国自治領として留め置かれたモルダヴィア・ワラキアだったが、クリミア戦争(1853年10月16日〜1856年3月30日)によってオスマン帝国も疲弊していたため自治が進んだ。


1875-1877 ヘルツェゴヴィナ蜂起

1875年に、セルビア公国(1817年11月6日〜1882年3月6日)やモンテネグロ公国(1852年3月13日〜1910年8月28日)の支援を受けたセルビア人によって、ヘルツェゴヴィナ蜂起(Herzegovina uprising (1875–1877))が起こった。


1877年までにオスマン帝国により蜂起は鎮圧されたが、この蜂起を支援するために1876年にセルビアとモンテネグロがオスマン帝国に宣戦布告して、セルビア・オスマン戦争(1876年6月30日〜1878年3月3日)とモンテネグロ・オスマン戦争(1876年6月30日〜1878年3月3日)が勃発し、1877年にはロシアもオスマン帝国に宣戦布告することになり、露土戦争(1877年4月24日〜1878年3月3日)が勃発した。


1876.4.20-5 ブルガリア人の四月蜂起

1876年4月20日に、ブルガリア人の四月蜂起(April Uprising of 1876)が起こった。オスマン帝国により蜂起は5月中に鎮圧されたが、鎮圧の過程でオスマン帝国軍によるブルガリア人の虐殺が行われた。


この虐殺が報道されるとヨーロッパ諸国の世論は反オスマン帝国となり、露土戦争(1877年4月24日〜1878年3月3日)が勃発しても、イギリスがオスマン帝国を支援するのは難しかった。結果として、オスマン帝国はロシアに単独で対処しなければならなくなった。


1876.6.30-1878.3.3 セルビア・オスマン戦争

1876年6月30日に、セルビア人が起こしたヘルツェゴヴィナ蜂起(1875年〜1877年)を支援するため、セルビア公国はモンテネグロ公国とともにオスマン帝国に宣戦布告してセルビア・オスマン戦争(1876年6月30日〜1878年3月3日)が勃発した。


オスマン帝国軍の攻撃により一時休戦せざるを得ない状況にまで追い込まれたが、露土戦争(1877年4月24日〜1878年3月3日)が勃発して戦況は変わり、最終的には戦勝国としてオスマン帝国にセルビア公国(1817年11月6日〜1882年3月6日)の独立を承認させた(サン・ステファノ条約(1878年3月3日))。


1876.6.30-1878.3.3 モンテネグロ・オスマン戦争

1876年6月30日に、セルビア人が起こしたヘルツェゴヴィナ蜂起(1875年〜1877年)を支援するため、モンテネグロ公国はセルビア公国とともにオスマン帝国に宣戦布告してモンテネグロ・オスマン戦争(1876年6月30日〜1878年3月3日)が勃発した。


オスマン帝国軍の攻撃により一時休戦せざるを得ない状況にまで追い込まれたが、露土戦争(1877年4月24日〜1878年3月3日)が勃発して戦況は変わり、最終的には戦勝国としてオスマン帝国にモンテネグロ公国(1852年3月13日〜1910年8月28日)の独立を承認させた(サン・ステファノ条約(1878年3月3日))。


1876.7.8 GG ライヒシュタット協定

1876年7月8日にロシアとオーストリアは、ロシアがオスマン帝国と開戦する場合を想定して、秘密裏に協定を結んだ(ライヒシュタット協定(Reichstadt agreement))。


6月30日にはセルビア公国とモンテネグロ公国がオスマン帝国に宣戦布告して、セルビア・オスマン戦争(1876年6月30日〜1878年3月3日)とモンテネグロ・オスマン戦争(1876年6月30日〜1878年3月3日)が既に勃発していた。


秘密協定では、バルカン半島のキリスト教徒の独立を前提としつつも、スラブ人の強大な国家が成立するべきでないことを確認した。そして、ロシアがオスマン帝国と開戦した場合にオーストリアが中立を保つ代わりに、ロシアがドニエストル川からプルート川までの地域(ベッサラビア)と南コーカサスを、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナを、それぞれ獲得することで合意した


1877.4.24-1878.3.3 GG 露土戦争, サン・ステファノ条約

1877年4月24日にロシアがオスマン帝国に宣戦布告して戦争が勃発した(露土戦争(1877年4月24日〜1878年3月3日))。


セルビア公国とモンテネグロ公国は1876年6月30日に既にオスマン帝国に宣戦布告しており(セルビア・オスマン戦争、モンテネグロ・オスマン戦争)、モルダヴィア・ワラキア連合公国(ルーマニア公国、1859年1月24日〜)もロシア側で参戦して1877年5月9日にオスマン帝国からの独立を宣言した


一方、ブルガリア人の四月蜂起(1876年4月20日〜5月)鎮圧時になされたオスマン帝国軍による虐殺にかかる世論により、イギリスですら支援は難しく、オスマン帝国は単独で対処せざるを得なかった。また、オーストリアは秘密裏にロシアと結んで(1876年7月8日ライヒシュタット協定)いて中立を保った。


バルカン半島ではオスマン帝国軍はブルガリアのプレヴェン要塞で抵抗したが孤立化されロシア連合軍が勝利(プレヴェン攻囲戦(1877年7月20日〜12月10日))し、アナトリア半島東部ではロシア軍がカルスを陥落させ(カルスの戦い(1877年11月17日))ると、ロシア軍はイスタンブール近郊まで侵攻した。


1878年3月3日にロシアの勝利で講和し、オスマン帝国はロシアにドニエストル川からプルート川までの地域(ベッサラビア)・ドナウ川河口域・南コーカサス・アナトリア半島東部を割譲し、モルダヴィア・ワラキア連合公国(ルーマニア公国、1859年1月24日〜)・セルビア公国(1817年11月6日〜)・モンテネグロ公国(1852年3月13日〜)の独立を承認し、ブルガリアに自治権を認め(ブルガリア公国の成立)、ボスニア・ヘルツェゴヴィナに自治権を認めた(サン・ステファノ条約)


なかでも、ブルガリア公国(1878年3月3日〜)の領地は広大でエーゲ海沿岸まで及んでいた。これは、事実上ブルガリアを勢力下に置くロシアが、陸路でエーゲ海に至ることを可能にし、ブルガリア公国のエーゲ海沿岸にロシア艦隊の軍港を築くことも可能にするものだった。サン・ステファノ条約(1878年3月3日)の内容を現実に履行することは、ロシアがバルカン半島ルートの南下政策を完遂することを意味した。


1878.6.13-7.13 GG ベルリン会議

サン・ステファノ条約(1878年3月3日、露土戦争(1877年4月24日〜1878年3月3日)の講和条約)について、強く反対するイギリスや秘密裏にロシアと結び(1876年7月8日ライヒシュタット協定)ながら反対を表明するオーストリアとロシアの利害調整のために、1878年6月13日から7月13日までプロシアでベルリン会議が開催されて英墺露普土仏伊7カ国が参加した。


ベルリン条約(1878年7月13日)では、ブルガリア公国の領地が3分割されてエーゲ海沿岸部は外され、マケドニア・東ルメリがオスマン帝国に返還され、オーストリアがボスニア・ヘルツェゴヴィナの行政権を獲得(オーストリア=ハンガリー二重帝国皇帝直轄の共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(1878年7月13日〜1918年)の成立)した。これによりロシアのバルカン半島ルートの南下政策は実現されなかった。


モルダヴィア・ワラキア連合公国(ルーマニア公国、1859年1月24日〜)・セルビア公国(1817年11月6日〜)・モンテネグロ公国(1852年3月13日〜)の独立は承認され、ブルガリアは領地を大幅に縮小されたものの自治権は承認された。しかし、サン・ステファノ条約(1878年3月3日)で自治権を認められたボスニア・ヘルツェゴヴィナは事実上オーストリアに支配されることとなってしまった。


1881年3月15日にはルーマニア王国(〜1947年12月30日王制廃止)が、1882年3月6日にはセルビア王国(〜1918年12月1日セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の成立)が成立した。ブルガリアは1908年10月5日に独立宣言をしてブルガリア王国(1908年10月5日〜1946年9月15日王制廃止)が成立することになる。


イギリスは、ベルリン会議(1878年6月13日〜7月13日)の間に、オスマン帝国と2カ国間で協議し、将来のロシアからの攻撃に際してイギリスが援助することで合意した。そして、その見返りにキプロス島を租借してインド植民との中継地エジプトの防衛力を高めることに成功した。




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